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*この記事は「女たちの21世紀」No.88【特集】「女性宰相」待望論の光と影――女性大統領・女性都知事・女性党首時代を読む」の「国内女性ニュース」に掲載したものです。ご寄稿いただいた山口さんの許可を得て特別公開いたします。

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自民党「家庭教育支援法案」―公による家庭への介入懸念

 自民党が来年(2017年)の通常国会で「家庭教育支援法案」を提出する予定だと報道された。国や自治体に家庭教育を支援する施策を策定・実施する責務を課すとともに、学校、保育所や地域住民にそうした施策に協力するよう努めるべきとする法案だ。これに加え、2016年10月から教育再生実行会議では、教育における「家庭の役割」を重要テーマとした議論が始まるなど「家庭教育」をめぐる動きが活発になっている。
 家庭教育をめぐる動きは以前からあったが、特に影響が大きかったのは2006年、第一次安倍政権のもとで改正教育基本法が成立した際、保守運動にとって念願だった家庭教育の項目が導入されたことだ。この後、自治体では「親の学び」についての講座開催やパンフ制作など、家庭教育関係の取り組みが盛んに行われるようになった。こうした取り組みの多くが母親に向けた内容になっていることは見逃せない。2012年12月には熊本県で家庭教育支援条例が成立。この条例は「モデル条例」的な役割を果たし、他県の議員が視察にくるなど自治体での条例づくりや家庭教育施策に大きな影響を与えた。現在、熊本のほか鹿児島、岐阜、群馬、静岡、徳島、宮崎の7県で家庭教育に関する条例が導入されている。
 現段階で明らかになっている「家庭教育支援法案」には、熊本など自治体の条例との共通点が多く、安倍首相をはじめとした保守勢力がすすめてきた「家庭教育支援」の流れにある法律といえる。また法案は、家族を「社会の基礎的な集団」として定めており、自民党の憲法24条改憲案の「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される」という文と呼応する。さらに、保護者が「子に社会との関わりを自覚させ」「子に国家及び社会の形成者として必要な資質が備わるようにする」ために環境を整備する必要性をうたう。「家族」を国家のための人材づくりの場であると明文化しているのだ。
 さらに、この法案において、学校や保健所は家庭教育支援に関する活動の拠点として定められており、その役割がかなり大きい。国、自治体のみならず、学校や保健所までも含めた公の「家庭」への介入がき、地域住民も含めた戦前の隣組的な監視状況さえ起きていく可能性は否定できない。
 「家庭教育支援法」が成立したら、自治体での家庭教育支援条例の制定や、基本計画づくりなどが加速化する。さらに既存の施策にはさらなる予算が投入され、法が定める「国家及び社会の形成者として必要な資質が備わるようにする」ための新たな施策も展開されることになるだろう。
 「家庭教育支援」というと悪いことのように聞こえない面があるが、毎日新聞の報道(11月3日)によれば、自民党内で法案の検討に関わった上野通子参議院議員は「家庭教育ができていない親は責任を負っておらず、明らかに法律(教育基本法)違反。支援法で改めて正す必要がある」と語ったという。公による家庭への介入、及び個の尊厳の否定や既存のジェンダー役割強化に繋がるのではと、危惧しないではいられない。

山口智美/モンタナ州立大学教員

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*この記事は「女たちの21世紀」No.87【特集】女性に押し寄せる新しい貧困――「新・家制度」強化の中でに掲載したものです。一部を特別に公開します。

【対談】 竹信三恵子 × 堅田香緒里
女性に押し寄せる新しい貧困

「生活困窮者自立支援法」という悪夢

竹信 きょうは「女性に押し寄せる新しい貧困」というテーマで、いったい私たちの状況はどうなっているのか、女性の貧困の最新事情について話したいと思います。
 これまでずっと女性は貧困でした。たとえば「男女雇用機会均等法」(以下、均等法)が施行された1986年の女性の給与所得水準をみてみると、300万円以下が8割を超えています。それが均等法から10年で6割台まで減りました。まだ6割もいることは問題ですが、加えて、最近では、アベノミクスの「女性が輝く」政策によって女性たちが猛然と追い立てられて、これまでとは違った様相の貧困が生まれつつあると感じています。
 堅田さんは生産領域だけでなく、再生産領域における搾取の問題を取り上げて、貧困問題に取り組んでいらっしゃいます。そうした観点から、いま日本で、どのような事態が起きていると感じていますか。

堅田 私は貧困をめぐる問題や言説、そして対貧困政策について研究しています。最近では、ここ20年の貧困領域におけるさまざまな政策動向の「集大成」としての「生活困窮者自立支援法」(以下、自立支援法)に注目しています。1990年代以降、対貧困政策において「自立支援」という言葉が頻繁に用いられるようになりました。その対象は非常に多岐に渡り、若者やシングルマザー、「ホームレス」、生活保護受給者が含まれます。そこでは、就労を通して福祉への依存から脱却すること、すなわち「就労自立」が目指されていたといってよいでしょう。ところが、今の日本は生産領域が掘り崩され、雇用は壊滅状態ですから、いくら「自立支援」をして「働け」といったところで食べていける仕事はほとんどありません。このため、多くの論者が、これをワークファースト型の日本版ワークフェアとして批判してきました。自立支援法は、そのようななかで成立しました。この法は、生産領域における「就労自立」を志向している点ではなく、むしろその「支援」の対象が再生産領域に拡大してきている点にこそ、危うさがあると私は考えています。ここでいう再生産領域とは、家事労働などのケア労働に限りません。「挨拶ができるか」「規則正しい生活が送れるか」といった日常生活の細々としたものまでが含まれています。

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竹信 確かに、内面まで立ち入った管理がすさまじくなっていますね。

堅田 実は自立支援法成立より以前にも、その前兆のような動きを見てとることができます。たとえば2005年に生活保護に導入された自立支援プログラムでは、就労自立に加えて日常生活自立、社会生活自立というカテゴリを設け、それへの支援が制度化されました。2014年の生活保護改変においては、保護基準の削減や扶養義務の強化等が大きく問題化・批判されていましたが、そんななか、実はひっそりと導入されていたのが「ライフスタイルの改善強化」です。ここには、一見背反してみえる2つのベクトルを見出すことができます。1つ目のベクトルとして、生活保護受給者は自らの健康管理、家計管理に努めなければならない、つまり健康や家計の管理が自己責任であることが明記されました。もう1つのベクトルとして、「ライフスタイル」の領域にも「支援」が導入されるようになっています。これは従来の、とにかく「働け」と駆り立てるワークファースト型の「支援」とは質の異なるものです。就労の手前で、生活や家計の管理等に課題を抱える人に「寄り添い型」のきめ細やかな「支援」を提供しようというものです。もちろんそれによって本当に助かる人もいるわけで、こうした支援には確かに望ましい面もあります。しかし私は、こうした支援のあり様には問題があると思っています。第一に、自立支援法は生活困窮者を対象としていながら、現金給付がほとんどないということです。「自立支援」という名の人的支援はするが、生活困窮を解消するための所得保障はしない、というわけです。ここには、所得保障(再分配)と自立支援(承認)の間に取引関係がみてとれます。第二に、そこではライフスタイルの領域にまで「支援」メニューが拡大することで、生活態度や家計管理などの「日常のふるまい」が「問題」とされていきます。そうした態度は、「これだけ支援してもなお自立できない者は自己責任だ」と、自己責任化のレトリックの強化につながる恐れがあります。このことは、生活困窮者への再分配を行わないエクスキューズとして機能するのではないでしょうか。さらに問題は、こうした「支援」の担い手として、NPO等に関わる女性たちが多く動員されているということです。

竹信 確かに多くの女性が自立支援に携わっています。私も「月間都市問題」という雑誌の企画で自立支援法の中の「中間的就労」について取材しました。実際に就労することを通じて働き方を学んでいくという職業訓練と就労の中間にある福祉的働き方なのですが、英国、イタリア、韓国では、国からの補助金などを通じて、こうした就労にも最低賃金が保障されています。一方、日本では、一般の労働市場並みの水準まで達しないと最低賃金は保障しなくていい枠組みになっており、その部分に国からの金銭的支えもない。そこを女性たちが中心になって必死で踏ん張っている感じでした。

堅田 再生産領域に関わる「寄り添い型」の自立支援は、従来の就労自立一辺倒の自立支援とは異なり、支援する側にとっても徒労感が相対的に少ないように思います。また支援される側にとっても、ただ「働け」と駆り立てられるわけではないので、しんどくない。つまり、支援する側もされる側も承認欲求が満たされるのではないでしょうか。しかし、その陰では所得保障のような再分配がごっそり抜き取られていくのです。このように考えると、いったい誰のための自立支援なのか、という問いが生まれます。生活困窮者を対象とした自立支援法でありながら、生活困窮を解消するための所得保障はほとんど行われず、自立の「支援」が氾濫していく。自立支援は、それを必要とするとみなされる人がいないと成り立たないので、まさに貧者・生活困窮者は支援者の承認や「自立支援産業」を支えるために機能的に必要とされているとみなすこともできます。とはいえ、自立支援にも大きなお金が付くわけではないので、ここに労働市場では周辺化されがちな女性が活路を見出す、動員されるという側面があります。

竹信 問題なのは、産業構造が大転換し、稼げる仕事がどんどん減っているのに、そこを手当するようなお金の回し方を政府がしていないことだと思います。介護とか保育とか貧困者の支援とか、急増する「稼げなくなった人たち」を支える仕事に女性たちが動員されていきますが、「女性は夫がいるからボランティア的な働き方でも困らない」というとっくになくなった前提に立って、ここにお金をつけない。だから、半無償労働のような形になり、社会のニーズのある仕事なのに賃金が出ないということで、新たな貧困が生まれてしまうのですよね。

均等法以降の「女性」の貧困と「女性」の分断

堅田 また最近、私が気になっているのは「冠貧困」の問題です。「女性の貧困」「子どもの貧困」「下流老人」「若者の貧困」などの、貧困問題を語るときの切り口に違和感を持っています。
 たとえば「子どもの貧困」という問題の立て方があります。そこでは、「子どもの貧困」への対策が、「子どもは親を選べない。だから貧しい家庭に生まれた子どもの貧困について、子どもには責任はない」というレトリックで正当化されてきました。しかし、そうした論法は簡単に、「大人の貧困」については自己責任だ、という主張につながってしまいかねません。「子どもの貧困」対策を正当化することが、「大人の貧困」対策を脱正当化する、という裏表の関係になっているのです。最近では「女性の貧困」がよくいわれますが、そうした問題の立て方もまた危険を孕んでいるように思います。「女性の貧困」といったとき、そこでは、障がいや病気などのために、そもそも生産力にならないとみなされるような女性は周辺化されがちです。「女性」も一枚岩ではない。私はそういう理由で貧困を冠で語ることに抵抗を感じます。

竹信 それは全くそのとおりですね。ただ、なぜあえて「女性」で括るかというと、これまで「女性の貧困」については「女性は結婚すればいいから困らない」「困っているのは男だ」といわれ、注目されなかったからなんですよね。最近では男性の貧困も大幅に増え、あたかも貧困が新しく出てきたかのようにいわれ始めて、再び女性の貧困は無視されています。私たちは、このような経緯から、女性の貧困に注目してもらえるように「女性の」を使わざるをえなかったわけです。

堅田 よくわかります。私も以前は「女性の貧困」という言葉をしばしば使っていたし、いまでも文脈によっては使うことがあります。しかし、女性といっても一枚岩ではないので「女性が貧困だ」という言い方でいいのか、迷いながら取り組んでいる状況です。
 とはいえ、若い世代を除けば、男の人より女の人の方が貧しいということは、はっきりしています。雇用の領域も社会保障の領域もとても厳しい状況です。新自由主義的な状況の中でどんどん切り縮められていて、その影響を最も受けやすいのが女性だと思います。そのような意味で、女性の貧困は範囲も広く、深さも深く、とても深刻な問題です。

竹信 先にも言ったように、「女性は結婚すればなんとかなる」は、すでに通用しません。結婚してもなんとかならないし、まず結婚しない、また、しなくて何が悪い、ましてや、結婚してDV夫などと同居しなくてはならなくなったら、もっと貧困になる、とさえいえますが、堅田さんは、どのような変化が起きているとみていますか。

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堅田 結婚は多くの場合、子どもを産み育てるという生殖目的と結び付けられています。もともと女性の賃金が低く、いまでは男性の賃金も下がっているなかでは、専業主婦になったり、子育てしたりすることが難しく、結婚するメリットはなくなったということではないでしょうか。ただ、それ以前に、「結婚すればなんとかなる」というように、貧困脱出のルートとして結婚しかない状況はそもそもおかしいと思いますが。

竹信 男性でも年収200万円以下の人が増えていますからね。
 私は、均等法は女性を労働市場に引き出すという点では有効だったと思います。女性を家庭内の無償労働力から、企業の賃労働者に変えて、労働力の供給を増やし、賃金の抑制に役立てる、ということで、これは経済界の考え方ですよね。ただ、そのとき、支配層内には、利害の対立がありました。官僚や政治家の間には、介護など家庭内の「無償嫁労働力」として据え置くことで福祉費用を抑えたいという考え方がありましたから。この対立を、女性を長時間労働の男性並み基準に合わせる形にすることで、折り合わせたのが均等法です。欧州では、企業に対する男女共通の労働時間規制で、男女ともに家庭内無償労働と賃労働に従事し、かつ税金で福祉的労働を支え、企業、男性、政府の三者が女性の負担を分けるという方向を目指しました。ところが日本では、労働基準法の女性保護を撤廃し、女性も長時間働かないと正社員という安定雇用には就けないことにしたのです。これで、丈夫で協力的なおばあちゃんがいたり、出産を選ばなかったりする女性は、総合職という男性コースに入ることができるようになりましたが、そうでない女性は、相変わらず家事・育児・介護の無償労働を担いながら低賃金のパート労働力として働くことになりました。これで、男性並みの無制限使いたい放題労働力を増やし、かつ、女性を無償福祉労働力+低賃金労働力として温存する、という一挙解決もできたわけです。均等法制定と同じ年に、夫の扶養に入っている女性には第三号被保険者という主婦年金を新設し、「均等法で男性並みに働けなくなった主婦などがパートよりもいい仕事を家事の合間にできるようにする」(高梨昌信州大名誉教授)として、労働者派遣法も制定しましたが、これらは、そうした世界観にもとづいた制度改変ですよね。その結果、女性を中心に非正規労働は急増し、これが、男性も巻き込んだ非正規の増加の端緒になり、現在のワーキングプアの温
床になっていきました。

堅田 均等法は、男のスタンダードを変更せずに、女がそこに近づいていくという形ですね。他方で、第三号などの制度を通して、一方で「含み資産」とみなし無償労働の担い手として、他方で低賃金労働者として、国家と資本が「女」を活用し続けるためのしくみが完成しました。

竹信 そこにはもうひとつのメリットがありました。男性労働者に総合職女性という競争相手をつくって、彼らにはっぱをかけることができるのです。当時、新聞記者として取材した証券会社で、「男どもには、『女性だってがんばっているんだ、それができないお前たちはスカートをはけ!』といっているんですよ」と悦に入っている役員がいました。しかも、女性だけにかろうじてあった深夜労働の規制がなくなったことで、管理職たちの頭の中に時計がなくなった。過労死はこのあたりから激増していきます。

堅田 女に与えられた選択肢は、男になって稼ぐか、被扶養に甘んじて貧するか、ということですね。
 私は1979年生まれのいわゆる「ロスジェネ」です。お金がなかったので、当時もっとも授業料が安かった大学・大学院に進学しました。奨学金制度も利用していたため、700万円近くの借金を現在でも返済し続けています。これは私に限った特別な状況ではなく、研究職を志していた多くの友人も私と同じような状況に置かれています。私は運よく研究職につけましたが、友人の中には研究職に就けずに死んでしまった人や、行方がわからずに未だに連絡がとれない人もいます。教育は雇用される前の人的投資のような機能をもたされており、教育を受けた後には競争に勝って正規職に就くか、就けなければ死ぬか、とんずらするか、というような深刻な状況になっているのです。私たちの「学びたい」という当たり前の欲求や暮らしが守られず、気づいたら債務奴隷になってしまいます。研究職なので特殊な例かもしれませんが、アナロジーとして一般の雇用事情にも同じことがいえるのではないでしょうか。

竹信 そのような前借制度的な強制労働制は、すごい勢いで広がりつつありますね。たとえば、保育士や介護士の労働力確保のため、再就職準備金制度をつくると政府は発表していますが、2年間働かないと返済が免除されません。労働条件を上げて定着を図るのでなく、前借で縛るのです。

堅田 次は自衛隊がそのような制度を設けるのではないでしょうか。
 現在の政治の根幹は「奴隷根性」を浸透させることにあると思います。秘密保護法制定も憲法改正も人々を隷従させるためです。それを手っ取り早く行うのが債務奴隷化だと思います。

竹信 先ほどおっしゃった「女性の貧困」といった冠貧困ですが、確かに、こうした債務奴隷化や劣悪非正規化による貧困化のパターンは、いまはもう女性に限らず広がってしまったので、それを「女性の」で切ってしまうと、見えるものが見えなくなってしまうのでは、という疑問はありますね。

堅田 そのとおりだと思います。また、「女性の貧困」が社会問題化されるときに、「年収200万円以下で生活する若年単身女性が急増している」というような言い方をされますが、そもそも年収なんて考えられない人からすれば、200万円でも「すごく稼いでいる」と感じるのではないでしょうか。多くの場合、収入が問題にされるときは、雇用されていることが前提で、いかに賃金が低いか、労働条件がよくないか、がポイントになります。そうすると、たとえば全面的に福祉で生きている人や、国の制度や男のお金に頼らず、独力で路上生活している女性の問題が抜け落ちてしまう。少なくともマスメディアの言説ではそうした女性の問題は切り離されて語られているという印象です。「女性の貧困」という問いの立て方は、意図していようがいまいが、女性の間の差異をも無視してしまう危険を孕んでいると思います。

竹信 マスメディアは縦割りの発想です。たとえば、労働と福祉は別の世界のこと、という分け方をするのですが、生活という面から見ると、福祉の対象は労働ができない条件にある人であって、地続きなんですよね。マスメディアのそうした特殊なレンズをはずさせるのは大変です。ただ、それが一般の人のレンズだったりもするので、悩ましいですね。

堅田 そういうことからも、竹信さんの「家事労働ハラスメント」という問いの立て方は大変貴重だと思いました。私もそうですが、「女性」として括られることに抵抗のある女性もいます。

竹信 確かに「男/女」という枠組みが不便なときがあります。しかし、それを使わないと分析しにくいというのも事実です。

堅田 そして、その枠組みから離れようとすると、やたらと「ダイバーシティ」を強調する新自由主義的な勢力に回収されてしまう危険性もありますよね。

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女性の無償労働を利用する新自由主義

竹信 さて、ここまで話してきたような均等法からワーキングプアまでの流れは、ある意味、私の世代が経験してきた従来からの女性の貧困のパターンだと思うのですが、いま、実は、女性の貧困の質が激変しているのではないでしょうか。新しい現象をよりリアルに体感している世代と思える堅田さんに、その変質ぶりを語っていただきたいのですが。

堅田 1つには、竹信さんがずっと発信してこられたように、雇用の変化、労働そのものがどう変わってきたか、切り縮められてきたか、ということなのだと思います。これにもう1つ付け加えたいのが、社会保障等の公的な責任が減退してきた、あるいはその質が変化してきた、ということです。その際、頻繁に用いられたロジックが「自立支援」でした。
 新自由主義はⅠ期とⅡ期に分かれているといわれます。Ⅰ期はロールバック型と呼ばれ、1980年代のサッチャリズムに体現されるような、小さな政府ですべてを市場に任せていく、というものです。これに対してⅡ期はロールアウト型と呼ばれ、国家は単に撤退(ロールバック)するのではなく、市場の自由を徹底させるためにむしろ積極的な役割を果たしていきます。と同時に、市民が「アクティブな市民」になって国家を肩代わりすることを期待されます。「新しい公共」や「第三の道」等がこれにあたり、市民社会とか民間活力の導入が進められるわけですが、それが最も進められてきたのが福祉分野でした。そして、ここで女性が積極的に活用されてきたのです。一般の労働市場で「男性並み」に働くことができない女性が、自らの働き場所や生きがいというものを、市民社会に見出しているのです。これは国家にとっては自らの負担を減らすことができ、企業にもうまみがありましたが、同時に女性の「自己実現」にもつながりました。新自由主義とフェミニズムの親和性、または癒着関係ともいうべき事態をここに見てとるこができます。

竹信 それは、新しい貧困要因ですよね。この夏、北海道夕張市で学生たちとフィールドワークを行うことになり、昨年来、何度か夕張に事前調査に出かけているのですが、ここはまさに、「アクティブな市民が国家の肩代わりをする」の実験場になっています。財政破綻して、当時の小泉政権が「自己責任」路線のモデルケースにするため自力返済を迫られた。税金が借金の返済に充てられてしまうので、公共サービスに十分にカネを出せない。そこで高齢女性などが、公共サービスにあたるものを必死に代替しています。たとえば、公民館の運営を、こうした住民が引き受けたり、公共空間にある花壇の手入れを住民が無償でやっていたり。安倍政権が「一億総活躍」の旗を振っていますが、まさに「総活躍」です。住民の一人の60代の女性は「いったいいつになったら、私たちに『老後』は来るのか。財政破綻の直後はみな、頑張って市を立て直そう、と気を張っていましたが、今年で破綻から10年。もういい加減疲れて気力が失せてしまう」と話していました。そろそろ借金返済から住民の生活の向上のために公的資金を戻して、公共サービスを回復する措置を取らないと、頑張ってきた住民たちも疲れ果て、希望を失ってしまうわけです。
 そんな話を聞いていると、「新しい公共」ではなく「公共の死滅」ではないか、と思えてきます。公共が撤退してしまうと、そこへ無償労働者としての女性が動員されていく、という構図そのままですよね。

堅田 そうだと思います。厄介なのが、それが女性にとっても「自己実現」のチャンスであったりすることです。一般の労働市場に入れない女性のなかには、そこに活路を見出している人も多くいます。

竹信 それが、ケア労働の賃金の足を引っ張っている要因の1つになっているかもしれません。かつて、福祉NPOで活躍している女性に福祉業界の労働条件引き上げの話をしたら「人のお世話をする崇高な仕事なのに、賃金だの労働条件だのいうのはおかしい。私たちは労働者なんかではない」といわれて驚いたことがあります。女性が福祉労働の劣化の尖兵になりかねないと衝撃を受けました。

堅田 子ども食堂を熱心にやっている人が、ホームレスへの炊き出しには否定的なことがあるのですが、そこにも共通する問題があると思いました。ただし、問題なのは、女性がNPOや低賃金の福祉労働に従事せざるをえない、そうした選択肢しか用意されないような構造のほうだと思います。

竹信 確かに、再生産領域での女性活用、利用、搾取を前提にして、ものごとが進んでいますからね。たとえば、DVの相談員をしている女性たちは、高い技能を低賃金で提供しています。DVという大きな社会問題の解決のために税金を投入して、相談にあたる働き手の生活を支える必要があるはずですが、生活できるだけの賃金にならず、やりがいを目いっぱい利用されて、女性たちはヘトヘトです。先日も、こうした相談にあたっている女性から「どうしてこんなに忙しいのかしら……。周りを見ても、ひまな女性が本当にいなくなっている」といわれました。「それは、ケア的な公共サービスのニーズが増え続けているのに、そこに税金を出さないからだよ」と答えました。低所得層への再分配や、これを支えるケア労働者の賃金に税金が使われていない。社会に必要な労働がまともな雇用にならない。そして、女性たちが食べるために行う賃労働の合間に、その種の無償労働にどんどん投げ込まれてきているのです。

堅田 意図せざる共犯関係という感じでしょうか。安倍政権に限らず、いわゆる新自由主義政権はこのような事態はとうに見越していると思います。「新しい公共」とは民主党(当時)時代に出てきた言葉ですが、自民党政権に戻ってもこの言葉を捨てなかったことには意味がありました。市民社会やNPOは「使える」ということです。彼らは、壊滅的な労働市場ではもう人々が十分に稼げないことはわかっているため、「新しい公共」という枠組みを導入し、市民社会を国家の肩代わりとして活用しながら、同時に、労働市場から排除/周辺化された人々の「承認」欲求を満たそうとしている、ただし「再分配」はしない、という仕組みになりつつあるのではないでしょうか。

ケア労働力として収奪される外国人女性

竹信 アベノミクスの「総活躍」政策による貧困化キーポイントは、日本国内の女性にとどまりません。アジアなどからの移住労働者の女性たちも、そこに巻き込まれつつあります。日本の女性を承認欲求で釣るだけでは、労働力として限界があるので、移住労働者も導入し、外国人への差別感を利用して、安いケア労働力として利用する試みです。

堅田 おっしゃるとおりです。ただそれはアッパーミドルの女性向けではないですか?

竹信 本当にそうだといいのですが。私は、やりようによっては、ロウワーミドルの女性も対象になるのではないかと心配しています。2014年3月に、シングルマザーがベビーシッターに子どもを預け、死なされてしまった事件がありました。飲食店で働いていて、インターネットの紹介サイトでベビーシッターを探して2人の幼児を預けたところ、その男性シッターの部屋で子どもの1人は遺体で見つかり、もう1人は放置されて低体温症になっていたという事件です。保育園不足が放置されれば、こうした所得が高くない女性も、手軽に預かってくれる場所としてシッターが必要になりうると思うのです。国家戦略特区で今年から「家事支援人材」という移住労働者の利用が解禁されましたが、その際、ベアーズという大手家事代行会社が、新聞社の取材に対し「普通の女性も利用できるように、最低賃金を割ってもいいよう政府に働きかけたい」という趣旨のコメントを出しています。この発言は波紋を呼び、アジア女性資料センターや移住者と連帯するネットワーク(移住連)などからの働きかけもあって、政府は、最低賃金は守ると約束しました。ただ、みなが黙っていたら、その可能性はあったと思います。しかも、日本の仕組みは、家事支援人材は、3年経ったら自動的に出身国に戻されるので、有期ではあっても更新によって何年も滞在できる香港などと違って、労働組合などのネットワークをつくっての待遇向上運動はしにくいです。こちらの監視の目がゆるめば、条件を引き下げた中低所得者向けサービスの提供は理論的にはありえると思っています。低所得なのに保育園に子どもを預けられない女性向けの「貧困ビジネス」ですよね。

堅田 なるほど。移住労働者の労働条件向上において、労働者の連帯は非常に重要だと思うのですが、それが構造的に困難な状況の中、貧しい世帯の保育ニーズを利用した「貧困ビジネス」が成立し得るということですね。ますます子どもを産み育てにくい社会になってしまいます。

竹信 日本では、2000年前後のジェンダーフリーたたきで性教育を封じ込めてしまいましたから、産めないときに産まない選択ができる女性も減っていくのではないかと危惧しています。安倍晋三首相もそうですが、「新しい歴史教科書をつくる会」に支持された小池百合子東京都知事が誕生し、性教育バッシングをしてきた人たちが主流になっています。中流家庭なら子どもにある程度の知識は教えるでしょうが、生活が苦しい家庭では目いっぱい働かねばならず、性教育をしている暇もない。こうした家庭の子どものなかには、学校が性教育に尻込みするようになったことで、生理を知らない女の子もいた、という話も聞いています。性教育の貧困からくる貧困も、女性に対する新しい貧困として今後、増大してきそうです。産めない経済状態なのに産まない選択ができなかった女性たちにとっては、極端に低賃金の外国人労働者による極安ケアサービスが頼みの綱になってしまうかもしれないですよね。

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続きは「女たちの21世紀」No.87【特集】女性に押し寄せる新しい貧困――「新・家制度」強化の中ででお読みください。


【『女たちの21世紀』86号掲載記事より特別にウェブ公開しています】

  「新翼賛体制」にどう立ち向かうか  竹信三恵子 

竹信さん

はじめに

 どこかへ行こうとすれば、いまどこにいるのかを知らなければならない。だが、私たちはいま、自分たちがどこにいるのかさえわからなくなっている。報道管制が静かに進み、社会の底流で何が起きているのかさっぱり見えなくなった。そんななかで美しげな政治スローガンばかりが飛び交い、同時に、そのスローガンを裏切る政策が裏で推進され続けている。代表例が女性政策だ。「女性が輝く社会」が日々叫ばれる一方で、保育や介護などの公的サービス、一日の労働時間規制など、女性活躍の大前提ともいえる基盤は大幅に崩されつつある。にもかかわらず、「輝く」の連呼に幻惑され、与党に吸い寄せられていく女性は目立つ。なんとなく、みんな与党。そんな異論が言えない社会に、私たちは雪崩を打って転がり込みつつあるのではないのか。こうした「新翼賛体制」に歯止めをかけるために私たちは何ができるのか。真剣に自問すべき時が来ている。

新翼賛体制の標的としての女性

 ヨクサンってなんのこと、と首をかしげる人は多いかもしれない。第二次大戦のさなか、長期化する日中戦争を国家総力戦体制によって乗り越えようと、当時の近衛文麿首相を中心に新体制運動が展開された。政府対軍部、といった支配層の内部対立の解消や、国民の自発的な戦争協力へ向け、1940年、首相をトップとする大政翼賛会が結成された。「戦争に勝つ」を理由にした政府への無批判な一体化が健全な異論を封じていった。そんな状況を「翼賛体制」と呼ぶ。いま、周囲を見渡すと、こうした翼賛体制が、新しい形で生まれているように思える。
 2016年2~3月、スイス・ジュネーブで、国連女性差別撤廃委員会による日本の女性差別撤廃条約実施状況が審査された。「従軍慰安婦」問題が大きなテーマのひとつとなったこの委員会の場に、今回は、拉致事件に抗議するバッジをつけた男性や、「なでしこの会」と名乗って「慰安婦」問題を批判する女性グループのメンバーが多数、出没した。彼ら彼女らは、日本から参加したNGOメンバーを無断で撮影し、ネット上で「左翼」「小汚いNGO」などの誹謗メッセージとともに公開している。同委員会に先立ち、政府が2月上旬に東京で開いた説明会には、右派とみられる男女が多数参加し、会場からの質問をほぼ独占する形で「従軍慰安婦」問題攻撃を繰り広げた。男女平等を求める場が、これを批判する場にひっくり返ったような瞬間だった。さらに、3月中旬からニューヨークの国連本部で開かれた国連女性の地位委員会(CSW)では、「慰安婦」問題についての日本の加害責任を否定する団体が「女性NGO」としてイベントを開催した。
 この5月に開かれたセクシュアルマイノリティの集会「東京レインボープライド」では、夫婦別姓などに否定的な考え方を繰り返し表明してきた自民党の稲田朋美政調会長が登壇してあいさつした。稲田氏は同党内でLGBT問題への取り組みを推進するという。
 一連の動きは、何が狙いなのか。
 ひとつは、野党の掲げてきた政策スローガンを奪う「抱きつき作戦」で、次の参院選の争点ぼかしを図ること。また、現政権の柱のひとつである新自由主義的経済人たちにとって、女性やLGBTは消費者として、労働力として、市場の行き詰まりの打開に役立つ潜在的資源だ。この資源を政権の側につけて、徹底利用を図ること。
 そして最後が、改憲に必要な多数を取るために、幅広い市民社会の抱き込みが始まっているということだ。安倍政権は、女性の支持率が一貫して男性を下回ってきた。改憲への道を整えるには、有権者の半分を占める女性層の取り込みは必須だ。そのためには男女平等に批判的なメンバーを女性運動の場に送り込むことで、その分断を図っていく必要がある。
 多くの女性団体や市民団体は改憲に批判的な立場を取ってきた。これらのグループが目指す人権や平等、生活の向上を実現するには、人間を消耗品として使い捨てる戦争を避けることが不可欠だ。とすれば、平和憲法を守ることなしに目的は達成できない。こうした敗戦の教訓が薄れてきたいま、「憲法などという一銭にもならないもの」にこだわるのをやめ、政府に協力すれば、各団体の掲げる目先の個別課題は実現させるという取り引きを持ち込めば、乗る人々も出てくる。こうして、社会運動を改憲反対から引き剥がしていく作業がひそかに進行していると考えれば、わかりやすい。

「女性活躍」はおいしい

  「女性が輝く社会」の名の下に進められている女性活躍政策は、これらの3つの狙いに適合している。まず、男女平等の実現は野党の政策と考えられてきたので、これを標榜することは「抱きつき作戦」として有効だ。また、次の潜在的資源としての女性利用の徹底にもかなっている。
 日本は2012年、中国に抜かれてGDP世界3位に転落した。安倍政権は「アジアで一番」でなくなった喪失感を「強い日本を取り戻す」のスローガンで穴埋めしようとする。そのために、女性の動員は欠かせない。少子化による労働力不足の中での低賃金労働力として、家庭内で育児や介護を引き受ける無償労働の担い手として、女性ニーズという新しい消費の柱として、最近では末端自衛官として、あますところなく女性を利用することが、国力の増強には大きな力になるからだ。
 3つ目の改憲反対からの引き剥がし策としても、これまで無視されがちだった女性に焦点を当てることで女性たちの承認欲求を満たし、遠くの憲法より現実の女性の地位向上、という層を生み出すことができる。
 第二次安倍政権の個々の女性政策を追っていくと、これらの構造が浮かび上がってくる。
 高年齢出産への不安をあおって早期出産を迫るものとして批判を浴びた「生いのち命と女性の手帳」(仮称)や、「希望出生率1・8%」の目標設定は、「強い国家」のための人的資源の増強へ向けた女性の動員策だった。だが、これには、「産めないのは若い世代の低賃金のせい」「保育所が足りない」「長時間労働をどうしてくれる」といった女性たちからの批判が盛り上がった。次に飛び出したのが「待機児童の解消」へ向けた保育園増設策だった。これは歓迎された。だが、施設の増加に見合う保育士が集まらないという新しい問題が起きた。保育士の待遇が低すぎて、資格を持っていても働きに出てこないからだ。とはいえ軍事費の増加や法人税減税などの中で、保育士の待遇改善には容易に公的資金を回せない。打開のため、20時間程度の研修による促成栽培の保育支援員制度が設けられた。また、2016年度から、外国人家事労働者を特区に導入してベビーシッターなどの形で在宅保育にあたらせる策も打ち出された。これらの低賃金労働によって、働く女性たちが自力でサービスを購入し、人材ビジネスなどの企業のビジネスチャンスを増やすことでGDPを引き上げ、社会保障費も抑え込む構想だ。
 介護報酬も引き下げられたが、ここにも低賃金の外国人実習生を充てる策が打ち出された。
 すでに女性政策の外側では、「高度プロフェッショナル人材制度」が国会に提案されている。「高年収で専門的」な働き手を労働基準法の1日8時間労働規制から外す政策だ。適用基準を引き下げていけば、将来的には多くの女性が8時間労働の適用外となり、「柔軟に」働かせることができる。こうした層には、外国人家事労働者のサービスを自力で購入させることで公的保育にかける税金を節約できる。一方、2015年には労働者派遣法が改定され、不安定な派遣労働者が固定化されることになった。派遣女性は、出産すれば契約を解除して派遣会社に戻せば、産休・育休についての会社負担は避けることができる。
 社会保障も企業負担も抑えて、自己責任で子どもを育てつつ働く女性労働者が手に入り、女性の承認欲求が満たされて政権の支持に回ってくれれば、まさに、フリーライドの女性動員となる。
 その仕上げが、マスメディアによる情報操作だ。問題点の報道を抑えて「女性活躍」を連呼させれば、女性はすでに活躍しているかのような錯覚が社会に生まれるからだ。NHKの会長人事や、報道番組の有力キャスターの降板をはじめとするメディアの抑え込みが、ここで威力を発揮する。マスメディアだけではない。メディア研究者の桂敬一氏は、自民党が2013年に「Truth Team」(T2)女たちの21世紀 No.86  2016 6月 8という組織を設置し、ネット上で自民候補の応援をすると同時に自民党とその候補に対するネット内の書き込みを監視・分析を行い、誹謗中傷を発見したら削除要請や法的手段を取ることを始めている、と述べる(「月刊マスコミ市民」、2016年5月号)。ネット言論の監視強化だ。

等身大の私たちを確認する窓を

 一連の政策の背景にある安倍首相の究極の狙いは、祖父の元首相岸信介氏を踏襲した国家主義の呼び戻しだともいわれる。2012年に自民党が発表した改憲草案は、こうした世界観に裏打ちされている。たとえば、家庭内の男女の平等を規定した憲法24条は、改憲草案では「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」とされている。つまり、個人ではなく家族を、守るべき単位として規定し、「助け合わなければならない」との義務規定を書き込むことで、女性の家族への無償の奉仕をさらに強める姿勢だ。
 「主権在民」から「民を国家に奉仕させるシステム」への再転換によって戦争できる国へ復帰を目指すことは、第二次大戦後の米国を中心とした世界秩序や、基本的人権、平和主義などを柱とする国際社会の普遍的価値から離脱し、米国との衝突を招くとの懸念も出ている。活動家の武藤一羊氏は、これは米国からの自立による国家主義の復活ではなく、国家主義の復活を認めてもらうために米国への一層の忠誠心、軍事一体化、経済的譲歩という卑屈な大盤振る舞いを差し出すというねじれた接合だと指摘する(『戦後レジームと憲法平和主義~〈帝国継承〉の柱に斧を』2016、れんが書房新社)。内輪だけで「遅れた隣国を近代化したアジアに冠たる強い先進国」をはやして盛り上がり、外には「米国の先兵になりますからよろしく」と、すり寄る姿勢だ。そんな内向きの妄想を維持するには、海外報道や事実報道を遮断するしかない。いま進んでいるメディア規制は、こうした内輪だけの盛り上がりの維持のためとも見ることができる。
 だからこそ、私たちはいま、世界の中、アジアの中での等身大の自分自身を確認する窓を確保しなければならない。これからやってくる外国人家事労働者・介護実習生を、サービスを提供するだけの都合のいい記号ではなく、対等な生身の人間として直視し、どのように向き合うのかを考えていかなければならない。「従軍慰安婦」と呼ばれた女性たちの存在をなかったことにすることでプライドを取り返すのでなく、彼女たちを通じて、私たちを含む女性全般を性の提供者として国家に奉仕させるからくりを暴き、押し返す試みを強めなくてはならない。
 国境や貧富を越えた情報交流によって、私たちは自らを覆う目隠しを打ち砕き、窓をつくることができる。この窓を通じて、自分たちがいまどこにいるのかを確認してこそ、私たちは歩き出す方向を定めることができる。今回の参院選は、新翼賛体制を防ぐための正念場だ。まずはそこへ向かって歩き出すため、アジア女性資料センターも、ささやかな窓のひとつになりたい。

たけのぶ・みえこ/アジア女性資料センター代表理事、和光大学教員

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【『女たちの21世紀』86号掲載 特別インタビュー】

 「安保関連法に反対するママの会(以下、ママの会)」をたった一人で立ち上げた西郷さんは、現在、2、5、8歳の子ども3人を育てている。「だれの子どももころさせない」というスローガンは全国に広がり、いまでは47都道府県でママの会が立ち上がった。大学の性暴力事件をきっかけにフェミニズムを学んだという西郷さんは「戸籍を分けるという離婚を経験して家族のかたちは変化したけれど、私がこの子どもたちのママであることは変わらなかった」と話す。夏の選挙を目前に、仕事と育児をしながら社会活動にもパワフルに挑戦する西郷さんにインタビューをした。

【国内ニュース】西郷南海子さん1
インタビューは京都大学近くのカフェにて

日常の悔しさや、モヤモヤを 込められる言葉としての「ママ」

 2015年7月4日、「ママの会」は、安全保障関連法案がいつ強行採決されるかわからないという緊迫した状況のなかで立ち上げ ました。その日は土曜日で、子どもたちが午後のお昼寝をしていたのを覚えています。
 最初から強行採決されることが決まっているなら「審議」なんて茶番で、私たちがいる意味がないと強く感じていました。そこで、まずは1人でも声を上げれば、他にもこの状況をおかしいと共感してくれる人はいるだろうと信じて会を立ち上げたんです。
 会の名前に「ママ」を入れた理由は2つあります。1つ目は、私にとって「ママ」は一人称だったということ。子どもたちは、私の鼓膜が破れるんじゃないかという大声で、1日に何十回、何百回と「ママ!」「ママ!」「ママ!」と私を呼ぶんです。そして、私も子どもに対して「ママは片づけてと言ったでしょう」というように、自分自身を「ママ」と呼びます。私にとってすごく身近な一人称が 「ママ」なんです。
 もう1つの理由は、「ママ」とは一種の職種だと思っています。賃金は支払われないけれど、ほぼ24 時間、働いているわけです。そんな生活のなかの悔しさやモヤモヤを込められる言葉が「ママ」でした。
 ママの会は「だれの子どももころさせない」という合言葉に共感さえしてもらえたら、自由に名乗っていい、としています。誰かの許可は必要ありません。仕事、子育て、家事があっての活動なので、組織として運営していくのは大変です。これまで自然発生的に増えてきました。私もどこにあるのかすべてを把握していないくらいです。

「だれの子どももころさせない」

 会を立ち上げた直後の2015年7月26日に「渋谷ジャック」という街宣とデモをやりました。私が思い立って、インターネットで呼びかけたら、すぐにたくさんの仲間が集まったのです。準備のためのチャットで、合言葉を決めようという話になりました。いくつか案が出てきましたが、「だれの子どももころさせない」を見たときに「これしかない!」と思ったんです。
 このスローガンは「だれの」という部分が重要だと思っています。 これが入っていないと意味がないのですね。「自分の子どもを守ろう」が「自分の国を守ろう」になり、「じゃあ、核武装だ!」というように、「子ども」だけでは簡単におか しなところに飛んでいってしまうかも知れません。また、「だれの子ども」とは、小さな子どもたちだけを指しているわけではなく、だれかの子どもである大人も含まれます。 戦場に送り出されていく兵士もだ れかの子どもです。そういう意味で「だれの」は欠かせないキーワー ドとなっています。
 
SNSを活用

 ママの会ではSNSが大事な活動ツールとなっています。食事の支度をしながら短くやり取りをしたり、子どもを抱っこしながらニュースをチェックしたり、片手で繋がれることが重要です。よく「授乳中にスマホをやるな」とか「子どもの目を見て授乳しましょう」と言われたりしますが、「おっぱいやっているときぐらい息抜きさせてよ」 「外とも繋がっていたい」と反論し たくなります(笑)。
 活動はあえてSNS以外には広げないようにしています。会報をつくったり、事務所を置くとなったらとても大変です。子どもを育てながらできる範囲で活動していくために、最初からやらないことを決めておくのは大事だと思っています。そのなかで言いたいことはしっかり言うという形で活動していきたいんです。

【国内ニュース】西郷南海子さん2
「渋谷ジャック」のデモで戦争法案の廃案を 訴える西郷さんとママの会メンバー


「男の持ち物」という意識

 インターネットではママの会に対する誹謗中傷があるのは知っていますが、見ないようにしています。私自身、以前にまとめサイトを作られたことがありました。「子連れでデモをやるのは虐待だ」と書かれていて、あまりにもひどいのでサイト運営側に削除を求めたのですが、削除するには私の身分証明書等を送る必要があるとわかりました。この対応にはとても驚きました。書いた人は好き勝手に匿名で書けるのに、書かれた人は削除のために本人であることを証明しなければならないなんて、おかしいと思います。誹謗中傷を書かれた人ではなく、書いている人が顔を 出すべきです。結局、そのまとめサイトは削除されませんでした。
 ママの会へのバッシングは「母親としてどうなんだ」というものが多く、性的な嫌がらせはほとんどありません。それに比べてSEALDsの女性メンバーに対する嫌がらせはひどいですね。彼女たちに対する性的な嫌がらせが、ママの会に来ない理由は、「ママは他の男の持ち物」という意識があるからではないでしょうか。子どものいる女性には「パパ」がいるというイメージですね。「渋谷ジャック」 後に「頭にウジが湧いている」とか 「旦那は何をしているんだ」といった発言をした著名人の方々がいました。ママは性的な存在ではなく、パパが管理する必要があるもの、という意識が見えます。
 ママの会のフェイスブックページには、投稿をすると秒速で攻撃的なコメントを書き込んでくる 「常駐」の人たちがいます。「暇だな」と思うと同時に、そういう人が私のことをどこで見ているかわからないと思うと怖くもなります。匿名で誹謗中傷をまき散らす行為は不公平です。女性たちへのバッシングから、この社会の歪みがよくわかります。

常に監視されるママたち

 いまの日本のママたちは、いろんなところから監視されていると 感じます。たとえば、子どもの虐待防止キャンペーンなどでは「虐待だと思ったらすぐ通報を」といった呼びかけがされるのですが、 私にはあの呼びかけが「子どもを泣かせたら通報するぞ」という母親に対する脅しのように見えてしまうことがあるのです。本当に困っている人を助けようとしている とは感じられません。実際、子どもが泣いていたら、近所の人に児童相談所へ通報されたママ友がいたのです。子どもがたくさんいる人なので、どうしても声が大きくなってしまうということでした。
 「保育園落ちた日本死ね!!!」 ブログが話題になったとき、国会議員へ保育園に関わる政策について署名を提出した女性たちがいました。このことが話題になると、「きれいに化粧をして、高級な抱 っこ紐を使っている母親たちが、 本気で働きたいわけがない」といったバッシングがあったのです。 さらに彼女たちが持っていた赤ちゃん用タオルについて「かわいい 柄のタオルを使っている人は、遊んでいる人。そんな人に子どもを 保育園に入れる資格はない」とまで書かれていました。もし彼女たちが化粧をせずに地味な装いで行ったとすれば、今度は「こいつら 女を捨てている」と書かれるだろうと思います。
 すべてを見られ、ジャッジされるんです。人を叩きたくて仕方がない人たちがたくさんいるという ことだと思います。

世の中を変える力があると 伝えること

 私はいま、低投票率をどうにか したいと思っています。
 先日、京都3区の衆議院補欠選 挙が行われましたが、投票率は3 割でした。有権者の3割とは人口の3割ではありません。投票権のない人はたくさんいます。人口からみると、投票に行く人は圧倒的なマイノリティになっているわけです。ここまで投票率が低くなってしまうと「選挙に行こう」という呼びかけは何も意味していないのではないかという気がしてきます。
 政治がワイドショーでしかなくなっている現在、選挙に労力を割くのは馬鹿げていると思っている人は多くいます。投票が締め切られた瞬間に当選確実を伝えるニュース速報が出ますが、私の一票はまだカウントされていないのに「確実」と出てしまう。これでは、行っても行かなくても同じだって感じてしまいますよね。一票なんて軽いんだといわれているようです。
 以前、ハタチになって選挙権を渡されてもどうしていいのかわか らないと話してくれた友人がいました。彼が、子どもの頃から「君たちには世の中を変える力がある」 と言われ続けていれば選挙に行こうと思うかも知れないけれど、そういうことはなかったとも言ったことがとても印象に残っています。 「あなたは変えられる」「あなたには力がある」ということを伝えずに、「選挙に行きましょう」と呼びかけられても行くわけがないですよね。
 いま、アメリカ大統領選挙の予備選挙に出ているバーニー・サンダースさんが有権者に「あなたが今、ここにいることに価値があるんだ」とスピーチしていました。 とても素晴らしいと思ったんです。自分が存在することの価値を 認める発言ができる政治家は日本にどれほどいるでしょうか。
 子連れでデモに行くと「子どもを洗脳している」などと言われることがあります。でも、「世の中がこんな状況になっていて、ママはこれだけは嫌だと思うから声を上げに行くんだよ」という姿を見せることは、子どもの成長にとってプラスの面があると思います。 人が悩みながらも行動する姿を見ていなければ、突然、選挙権を手に入れても、どうしたらいいのかわからなくなってしまいますから。
 私にとって、子どもを通してつながったママたちとの関係は、とても楽しいものです。このつなが りを大事にしながら、これからも活動していきたいと思っています。
 
(まとめ:濱田すみれ/アジア女性資料センター)

●西郷南海子さんのインタビュー記事掲載「女たちの21世紀」は下記からご注文いただけます。
「女たちの21世紀」No.86【特集】フェミニスト視点で見る選挙の争点

『女たちの21世紀』のリレーエッセイ「被災地で生きる女たち」は、被災地で暮らす女性や、原発事故で生活に大きな変更を余儀なくされた方の思いを届けるため、2013年9月からはじまりました。震災から5年の今年、執筆者の承諾を得てブログに掲載します。(2016年3月 『女たちの21世紀』編集部)

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 『女たちの21世紀』77号、2014年3月掲載

リレーエッセイ 被災地で生きる女たち 3

草野祐子(みやぎジョネット・仙台市青葉区)


 ひととして生きる醍醐味は、自分の人生をデザインできることにある。「311」の揺れはしかし、瞬時に2つの彼方へひとを二分し
ワープさせた。亡くなりかたは惨すぎ、生き残った者には容赦なく枷が掛けられた。
 あの夜、もう2度と明るい朝はこないと思われたが、闇は静かに白みゆき、家の様子を見に入った石巻で、涙も、声もわすれ、ただ共に生きたい想いだけが溢れて、わたしは団体設立を決意した。
 一人ひとりのしっかりした立ち上がりを願い、女が積極的に関与する復興図を思い描き、県内各地さまざまに活動するなかで、女たちの様子に強く地域性を感じるようになった。向かう頻度は徐々に県北にシフトした。
 あの頃欲しくて欲しくてたまらなかったのが、トレーラーとトイレだった。ある日町長のトレーラーがやって来てジョネットハウ
ス(jh)になった。その後jh を訪れた町長のウインクでトイレ3基が運ばれ、国連ウィメン日本協会のご寄付で電気が灯り、事務機
器や電話がついた。あぁ! 女の復興の種が蒔ける、安心して居れる、と思えた感動の契機だった。
 ひとりになれる時間が欲しくてjh で本を読みふけっていたひと、jh の壁やら床やら、来るたびに拭き掃除をするひと、震災後の鬱
やトラウマからそっと帰るひと、昼間来たと思ったら夕方またやって来るひと、いろんなひとがいた。
深い傷を負い『生きる屍』状態の女たちが、ジョネットに寄さってきた。jh まで来ることさえままならなかったひとが、自分を受け
入れてくれる場所があること、さらに求めてもらえる幸せに気づくようになった。
 被災してひとが生きるために、あるいは被災地にひとが生きるには女たちがいなければならないと証したのが、東日本大震災だ。ネットワークを複層化させた女たちに女たちは支えられ、歩をつないで来ることができた。
 ジョネットは、毎日催すサロンを窓口にして女性たちのエンパワメントを重視してきた。全国からの支援物資をニーズにあわせ確実
に届けながら、消え入りそうな声を拾い寄り添ってきた。編み物等の技術をいかした製品化、津波被害を受けた海産物販売の再開、起業支援、資格取得を目指す講座の実施等、被災地の女性の自立・復興を総合的に支援する活動。加えて被災地の現状を発信、行政等への提言にも取り組んできた。
 被災後4年目を迎え、認知症、不登校、いじめ、自殺などの問題が進行している。あと数か月で公営住宅1号が入居可能というが、「あっちへいく人こっちにいく人」(住む先のあるなし)の構図が、大きなひずみを生んでいる。回復には時間がかかるが、枷を緩められるよう女たちが寄り添い続けている意義は極めて大きい。初心のまま、わたしは、ジョネットの黒子を続けると決めている。

被災地77号
2014 年2月、ジョネットの支援で起業した村松まつ子さん(70 歳)は、地域コミュニティ維持のため、店舗販売兼コミュニティカフェ運営のほかに移動販売を行っている。




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