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イスラエル「一方的な停戦」が伝えられました。すでに新聞等の報道で知った方も多いと思います。朝、BBCのウェブニュースを読んでいるときに、一番最初に目に入ったもの。それは、ガザ南部のラファの写真でした。破壊されて、廃墟となってしまったラファ。すぐさま、明日の授業で学生たちに見せるために、ダウンロードしました。3週間にわたる激しい空爆や砲撃のなかで、ガザは再び(いや、再び、再び、再び・・・)「グラウンド・ゼロ」になってしまいました。

ガザ住民を一方的に責められ続け、生身の身体をミサイルで粉々にし、生活空間を破壊しつくし、これ以上の血と涙が出ないほど惨い攻撃をしたあとに、イスラエルは何一つ譲歩せず、「一方的停戦」を勝手に宣言。その内容とは、イスラエル軍が「停戦」の名のもとで、ガザに地上軍を残すというもの。こんなもの、許されるはずがない。殺人マシーンがそのまま居残るということなど。封鎖が続くということ。筆舌に尽くしがたい地獄を経験させられたあと(いや、今もしている)もなお、形を変え、パレスチナ人を支配する。ガザ住民にとっては、そんなもの屈辱以外なにものでもありません。

ハマースは交渉を拒絶しているわけではありません。交渉の条件として、占領の終結を訴えているのです。占領下・支配下にあって、どうして、その支配者と交渉ができるというのでしょうか。

一切の耳を傾けないのがイスラエルの方なのです。拒否しているのは占領者・支配者であるイスラエルなのです。「一方的撤退」というのはそういう意味です。支配下においている者の声は一切聞かない、という通告です。

三週間におよぶ激しい爆撃の下で、ガザ住民は持てる最後の尊厳をもって、団結し、生きのびようとしてきました。生きのびることが、残された彼・彼女たちの闘いでした。ガザの住民の68%が1948年のイスラエルの建国の過程で、パレスチナの豊かなコミュニティを育んできた故郷を喪失した難民です。それらの人々を含むガザ住民は、一年以上にもわたって封鎖されてきた空間-それはまさしく「野外監獄」です-で世界の目があるはずのなかで、殺され続け、あるいは残された最後の可能性の探して避難しようとするなか、ミサイルの雨を落とされ続けたのです。そして、残された人々は、これからもイスラエルによって支配され続けるというのです。

自分をのぞいて家族の誰一人も残っていない男性の叫び。子どもたち全員を殺され、半狂乱になっている親たち。同僚たちが殺され、遺体が地面に転がっているなか、生きのびた男性が放心した顔で「神は偉大なり」と言い続けている姿。

これらは、世界が許した戦争犯罪でした。ガザ住民は<私たち>を許してはくれないでしょう。許せずはずがありません。

ガザは、私に「人間であることの恥」を教えてくれた土地でした。
2000年に初めてガザを訪問した私は、占領がガザ住民に与え続けているむき出しの暴力を目にしたとき、人間が人間に対して行っているあまりの残酷さに声をうしないそうになりました。砂の一粒一粒にすら、占領の暴力が刻まれている、そう思わせた土地でした。人間は理性など持ち得ていない、と確信させた地でした。それから9年の間、ガザの状況は悪化するばかりでした。2000年がまだましだったと言えるほどに。

マス・メディアの多くは、「一方的停戦」をポジティブに報道しています。
なぜ、内実を見ないのでしょうか。なぜ、イスラエルによる国家テロを批判しないのでしょうか。イスラエルのメディア戦略に、わざわざだまされてあげるのでしょうか。三週間、留まることなく進行し続けたエスニック・クレンジングをなぜ批判できないのでしょうか。答えは簡単です。そうしないことを「恥」だと感じないからでしょう。「一方的」という言葉を聞くと、2005年のことを思い出します。イスラエルはポーズとして、「ガザから入植地を撤退」させました。
あのときも「一方的撤退」という言葉が使われたでしょう。その後のガザは、徐々に徐々に封鎖され、2006年のパレスチナ評議会の選挙でハマース(イスラーム抵抗運動)が勝利し政権についたあと、欧米諸国(日本も含む)がハマース政権に制裁を加えただけでなく、猫の額ほどしかない小さな小さなガザが封鎖されたのです。パレスチナ人が民主的な手段を行使したことに対する罰として。

自分たちが気に入らない政党が選挙で民主的に選ばれると制裁を加え、その一方で、「中東唯一の民主国家」等といいながら、イスラエルを擁護する。イスラエルは「民主的な国」。そうかもしれない。では、誰にとって民主的だというのでしょう。それはイスラエルのユダヤ人に対してのみです。イスラエルの占領下にあるパレスチナ人は、あるいはイスラエル国籍を持つものの二級市民扱いをされて
いるイスラエルのパレスチナ人は、それを権利として行使することすらできません。

今回の攻撃で、ガザの人々は何もかも破壊され、命を奪われ、これ以上の地獄はないというほどの醜い状況を一方的に押しつけられた挙げ句、要求は何一つ受け入れられなかったのです。「一方的」という言葉を使うべきところは、ここにあるのではないでしょうか。

長文を読んでくださった皆さま、ありがとうございました。

清末愛砂 拝

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困ったものだ。

洞爺湖サミットの取材に行った香港人の友人3人が成田空港の入管で16時間拘束された。

彼らはインターネットをベースにした独立系メディア「InMedia」の記者たち。

問題点は、飛行場の入管で洞爺湖サミットの取材で洞爺湖に行く旨、滞在予定で答え
たら、別室に連れて行かれたのだが、その連れて行き方が1人に対して2人の係官が彼
らの両腕をつかんで、引きずっていかれたと言う。香港への一報は「逮捕された」と
言ってきたが、そういう連行のやり方は香港では現行犯逮捕の時にのみ許可された方
法だから。

2つ目の問題点は、16時間の間、食事の提供がなかったこと。翌朝になって、何度も言
ったところ、自費で買うことを条件に係官が買ってきたそうだ。

3つ目の問題点は、16時間かけて聞かれた事はほぼ2点。洞爺湖周辺でデモをする予定
なのか、何か破壊活動をする予定なのか。彼らの話ではとにかく係官の英語はひどく
分かりにくい英語で、2日目の朝からはやっと通訳をはさんで質問されたそうだ。

4つ目の問題点は、彼らの荷物を勝手に没収した上、中を調べた事。特に、記者なので
いろんな取材ができるよう、事前に決めた日にホテルを予約したりしていなかったそ
うだが、ホテルの宿泊に十分な費用を持っているかどうか執拗に調べられたようだ。

5つ目の問題点は、事前にも事後にも「なぜ質問される必要があるのか」まったく説明
がないということ。この辺は、何事にも説明を要する香港社会のほうで大きく関心を
呼び、新聞にも大きく書かれている。


翌日の昼過ぎ、1時半にいきなり『上陸許可』がおり、釈放されたとのこと。


このような扱いに対して、香港の保安局から照会の問い合わせが駐日中国大使館経由
で日本の当局に行っているとのこと。また、香港政府は駐港日本領事館にも問い合わ
せをしているようだ。


やはり気になるのは日本を訪問する『お客様』にあまりにもひどい扱いではないかと
思う。しかも彼らは記者である。そのまま体験した事をニュースとして流し始めている。

確かに地上チャンネルを持つような大きな商業メディアではない。しかし、職員から
ボランティアまで地道に取材をこなす独立メディアの影響力は香港ではそれなりに大
きい。

去年、取り壊しがほぼ決まっていたクィーンズ波止場という歴代の香港総督が着任の
際に使っていた船着場の保存を訴えかけ、保存運動につながり、政府は政策決定を変
更し、その波止場の歴史的価値を認めた上で、保存を決めている。実際、今年から歴
史的建築物の保存に対する予算も計上されている。また、最近でも香港の時代廣場
(タイムズスクエア)ビル横の『公共空間』として使用することを条件に政府が払い
下げた土地を使って商品のプロモーションなどに場所を有料で貸し出していた管理会
社に異議を唱え、手品や弾き語りなど、その広場での大道芸を行う市民とそれを取り
囲む管理会社の警備員を報道し、『公共空間』の定義を巡って議論が深まり、香港政
府は最高で土地の返還を含む、契約違反で管理会社を刑事告発することになったのだ
が、その背後に地道な取材をし、それが元で商業メディアも動かした、独立メディア
の働きがある。

今回の事でも、香港の新聞は拘束された友人の名前をそのまま報道した。独立系メデ
ィアの記者でも香港人なら彼の名前をたいてい知っているだろうから。


つい最近、成田の税関職員が訓練用の大麻樹脂を香港人旅行客のカバンの中に勝手に
入れ、麻薬検査犬が発見できなかったと言う事件があった。香港では麻薬を所持して
いたと言う事実をもって最高で25年の懲役刑になる。しかも、本人に断りなしに他人
のカバンを空け、しかも麻薬を入れたことに香港保安局はかなりショックを受けてい
た。保安局は日本政府に厳重抗議すると報道されていた。

なぜなら、日本は香港人にとって最も人気のある観光地だから。

香港の入管は「Immigration Service」と書く。あくまで旅行者へのサービス業なの
だ。そもそも公務員自体、サービス業のはずだ。もう少し「美しい国」を目指してい
ただければと思う。

(小出@香港)
こんにちは。会員の大倉弥生です。シドニー在住です。個人的なことですが、私の夫はビルマ人で、1988年の民主化運動に加わっていました。そうした立場から、ビルマに関して投稿させて頂きます。

天安門事件の1年前、1988年にビルマで民主主義を求めて人々が立ち上ったことはあまり知られていないのではないかと思います。今回とは違い、メディアによる報道が大変限られていたからです。

当時は主に学生活動家達が運動をリードし、そこに一般市民、僧侶、果ては一部の兵士も加わったそうですが、結局武力で弾圧されました。私の夫は学生活動家の一人であったため、即座にタイ国境へと逃れました。当時は1ヶ月もすれば事態が好転し、また家に戻れるだろうと思っていたらしいですが、結局19年間、国に戻れずにいます。

人々の要求に暴力で応える、19年前とまったく同じ状況に暗澹たる気持ちになります。

1990年、アウンサンスーチーを書記長とする国民民主連盟が圧勝した選挙結果を無視して、軍部が政権を握り続けているわけですが、その軍事政権に対して日本政府は、「経済発展が民主化を促進する」という論理で経済援助を続けてきました。その論理が機能していないことが、今回の事態で明らかになったのではないでしょうか。

以前、ビルマ人の友人たちは「日本のODAはビルマでは銃弾になる。だから、ODAをストップしてくれ」と言っていました。勿論、比喩を込めてのことなのですが、今回、長井さんはその銃弾で殺されたのですから、なんと皮肉なことでしょう。

日本ではどの程度の映像が流されているのかわかりませんが、こちらでは、市民のデモ参加者が蹴られ殴られ、頭から血を流しながら拘束されていく様子、沼に浮かんだ青黒い僧侶の遺体など、暴力のむごさを見せつけられる報道が続いています。

拘束された人たちがどうなっているのか。

そして拘束された人たちだけではありません。その家族たちさえ、どんな目に遭うかわかりません。私の夫の経験から言えば、デモには参加していなかった彼の父親、兄までが何ヶ月も拘束され、拷問されたそうです。

アジア女性資料センターが声明を出されたことを心強く思います。

また、在日ビルマ人たちの中には表立って行動することで入管に拘束されることを怖れ、自由に動けない人たちがたくさんいるはずです。日本に住む皆さんが、在日ビルマ人たち(1988年の武力弾圧から逃れて日本に来た人たちもたくさんいます)の強い味方になってくれることを願っています。

“Please use your liberty to improve ours” (あなたに自由があるなら、私たちの自由のために使ってください) アウンサンスーチー

大倉弥生
ビルマで取材中に、軍事政権によって殺害された長井健司さん。センター運営委員の清末愛砂の追悼文です。

長井さんのこと
10月1日

私が長井さんの死を知ったのは9月28日の朝。その前夜にニュースとして流れていたらしいが、私はインターネット・ニュースもテレビニュースも何も観ていなかった。

 28日の朝、毎日新聞の朝刊を読んだ私は凍りついた。長井さんがビルマで撃たれて死亡したことが一面トップに書かれていたからだ。すぐにテレビをつけると、番組は彼の死を報道していた。にわかに信じがたかった。友人の新聞記者Eさんにすがるような思いで電話をする。本当なのかどうか。
留守番電話に残したメッセージを聞いた彼はその後、「動転している声を聞いて、家族や親しい友人たちはこのような思いをしていると思い、はっとした」と教えてくれた。長井さんに何度か会って友だちになったMにそのことを伝えた。彼も動転している。そして「ああ、長井はシャヒードになったんだ。彼はシャヒーだ」と震えるような声で答えた。

 長井さんの死はどうやら間違いないらしい。授業中も泣きそうになるけれど、もちろん泣くわけにも、逃げるわけにもいかないので、そのまま「笑顔」で授業をした。

 授業だったこともあるけれど、電話をきっておくことにした。私が長井さんと親交があったことを知っているジャーナリストがいる。万が一連絡があっても何も答えたくない、言葉にもできない、そう思った。

 予想通り、授業中に東京の某雑誌編集部から連絡があった。知人が私のことを伝えたようだ。

 Eさんは、「絶対にインタビューには応じないだろうと思ったし、答える義務もないので、大阪在住の長井さんの知人を探している記者には黙っておいたよ」といってくれた。その思いやりがとてもとてもありがたかった。

 一日以上経って、彼のことを話してもいいと思い始めた。その理由は一つ。最近の長井さんの仕事から、パレスチナやイラクを取材していた長井さんというイメージがマスコミの報道で作られ始めていることに、違和感を抱いたから。
パレスチナやイラク取材は間違っていない。関心をもって取材していたし、私も彼の仕事の通訳やコーディネートをしたのもイラク取材だった。

 だけど、長井さんのもう一つの側面を知ってほしかった。長井さんは今回初めてビルマ国内に行ったけれども、ビルマの人権侵害に関心を持ち続けており、私との会話の中でも、ビルマの少数民族のことや学生たちの民主化を求める活動のことが話題にのぼることが多かった。私が彼に親近感を持ったのは、パレスチナやイラク報道ではなく、ビルマやタイつながりだった。女性の人身売買についても何度か話をしたことがある。29日の夜に、Eさんに長井さんとの交流について話をし、30日に行われた抗議行動で私は人前でその話を少しだけした。Mも一緒に参加し、ビルマの人権状況、長井さんのこと、ジャーナリスト殺害に対して抗議しようと呼びかけた。

 私のパソコンのなかには長井さんといっしょに写っている写真が20枚以上ある。
東京、バンコク、アンマン。なぜかドバイでの写真がなかった。いっしょに小船で運河を渡って遊んだあとに、ペルシャ料理屋で夕食を食べた。写真撮影はしなかったのかしら?二人とも食事をしたあとは、喫茶店のなかでまったりとしながら、水パイプを吸い、お茶を飲んだのを覚えている。その後は空港に戻り、疲れた足にマッサージをしようということで、空港内のマッサージ屋に。???二人ともあまり満足しなかったときに彼が「いやーー。バンコクの足底マッサージの方がいいよね」と笑った。

 バンコクで撮った写真は、屋台で夕食を食べているときのもの。この日はバンコクの大学で女性に対する暴力に関するワークショップがあった日。タイ在住のカレンの女性にスピーカーの一人になってもらった。ビルマに関心のある長井さんだったら取材してくれるのではないかと思い、そのときちょうどバンコクに来ていた彼を誘ってみたのだった。ワークショップそのものには間に合わなかったけれど、会場まで来てくれた。その姿を見て、「やはり、長井さんはビルマに関心があるなあ」と思ったのだった。

 実家に私が比較的気に入っている写真がある。それは、2002年4月に写したもの。
長井さんを含む何人かの日本人ジャーナリストたちが、日本に帰る私の送別会をしてくれたときのもの。その写真はイギリス在住時に住んでいたアパートの台所の棚の上に飾っておいた。遊びに来た友人の何人かが長井さんを指しながら、「素敵な人ね」と言ったこともあった。長井さんは比較的無口な方だったから、送別会では周りの人の話を聞いていることが多かった。そんななかで印象的な発言は、「日本に帰ったら、ここパレスチナで見た人権侵害を各地で話して伝えるんだよ」ということだった。実際に日本に戻ったあと、彼は一つ講演先を見つけてきた。送別会のこと、講演のこと、お礼を言うのを忘れてしまったよ。ありがとうね。

 新聞の取材で「長井さんの死を受けて、今後どうしたいですか」という質問を受けた。うーん。私はジャーナリストではない。自分のフィールドである教育現場で何かするしかない。ビルマの人権侵害を学生たちに伝えること。これが私のできることだ。早速、今週の授業でBBCの記事を使いながらやってみることにする。

 長井さん、ラングーンの路上で倒れているあなたの姿を見て、私は泣き叫びたくなったよ。どんなに痛くて、苦しくて、悔しかったことか。私の知っている長井健司が倒れている姿が目の前の映像のなかで流されるとは。私も悔しかった。手と頭を動かしているのは、何とか立ち上がろうとしたのではなかったのか。カメラを離さないあなたの姿を見て、私は「ジャーナリストだなあ」と心から思ったよ。カメラを持っている手と腕は間違いなく、私の知っている長井健司のものだった。

 映像を観た後に、私は昔いっしょに行ったラマッラーでの一件を思い出した。
日本人ジャーナリスト3人といっしょにパレスチナ赤新月社の救急車で病院に向かったんだよね。その途中で私たちはイスラエル軍に降りるように命令された。外には何人ものイスラエル兵が鋭い目で銃口を私たちに向けていたね。私は恐ろしくなって、右隣にいたジャーナリストのAさんに「銃口が向いてますよ。まずいです。撃たれてしまうかもしれないですよね。兵士たちに撃たないでって頼んでみましょうか」とあほなことを聞いてしまった。このなかで表面上動揺しているのは私だけだった。本心は分からないけれど、私以外の三人は平然とした(ふりを)していたよ。こんなエピソードを10年後に「笑いながら」話することもできなくなったね。

 長井さん、さようなら。さようなら。さようなら。
私は2007年9月27日にジャーナリストとして暗殺されたことを忘れないでいるよ。
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