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*この記事は「女たちの21世紀」No.87【特集】女性に押し寄せる新しい貧困――「新・家制度」強化の中でに掲載したものです。一部を特別に公開します。

【対談】 竹信三恵子 × 堅田香緒里
女性に押し寄せる新しい貧困

「生活困窮者自立支援法」という悪夢

竹信 きょうは「女性に押し寄せる新しい貧困」というテーマで、いったい私たちの状況はどうなっているのか、女性の貧困の最新事情について話したいと思います。
 これまでずっと女性は貧困でした。たとえば「男女雇用機会均等法」(以下、均等法)が施行された1986年の女性の給与所得水準をみてみると、300万円以下が8割を超えています。それが均等法から10年で6割台まで減りました。まだ6割もいることは問題ですが、加えて、最近では、アベノミクスの「女性が輝く」政策によって女性たちが猛然と追い立てられて、これまでとは違った様相の貧困が生まれつつあると感じています。
 堅田さんは生産領域だけでなく、再生産領域における搾取の問題を取り上げて、貧困問題に取り組んでいらっしゃいます。そうした観点から、いま日本で、どのような事態が起きていると感じていますか。

堅田 私は貧困をめぐる問題や言説、そして対貧困政策について研究しています。最近では、ここ20年の貧困領域におけるさまざまな政策動向の「集大成」としての「生活困窮者自立支援法」(以下、自立支援法)に注目しています。1990年代以降、対貧困政策において「自立支援」という言葉が頻繁に用いられるようになりました。その対象は非常に多岐に渡り、若者やシングルマザー、「ホームレス」、生活保護受給者が含まれます。そこでは、就労を通して福祉への依存から脱却すること、すなわち「就労自立」が目指されていたといってよいでしょう。ところが、今の日本は生産領域が掘り崩され、雇用は壊滅状態ですから、いくら「自立支援」をして「働け」といったところで食べていける仕事はほとんどありません。このため、多くの論者が、これをワークファースト型の日本版ワークフェアとして批判してきました。自立支援法は、そのようななかで成立しました。この法は、生産領域における「就労自立」を志向している点ではなく、むしろその「支援」の対象が再生産領域に拡大してきている点にこそ、危うさがあると私は考えています。ここでいう再生産領域とは、家事労働などのケア労働に限りません。「挨拶ができるか」「規則正しい生活が送れるか」といった日常生活の細々としたものまでが含まれています。

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竹信 確かに、内面まで立ち入った管理がすさまじくなっていますね。

堅田 実は自立支援法成立より以前にも、その前兆のような動きを見てとることができます。たとえば2005年に生活保護に導入された自立支援プログラムでは、就労自立に加えて日常生活自立、社会生活自立というカテゴリを設け、それへの支援が制度化されました。2014年の生活保護改変においては、保護基準の削減や扶養義務の強化等が大きく問題化・批判されていましたが、そんななか、実はひっそりと導入されていたのが「ライフスタイルの改善強化」です。ここには、一見背反してみえる2つのベクトルを見出すことができます。1つ目のベクトルとして、生活保護受給者は自らの健康管理、家計管理に努めなければならない、つまり健康や家計の管理が自己責任であることが明記されました。もう1つのベクトルとして、「ライフスタイル」の領域にも「支援」が導入されるようになっています。これは従来の、とにかく「働け」と駆り立てるワークファースト型の「支援」とは質の異なるものです。就労の手前で、生活や家計の管理等に課題を抱える人に「寄り添い型」のきめ細やかな「支援」を提供しようというものです。もちろんそれによって本当に助かる人もいるわけで、こうした支援には確かに望ましい面もあります。しかし私は、こうした支援のあり様には問題があると思っています。第一に、自立支援法は生活困窮者を対象としていながら、現金給付がほとんどないということです。「自立支援」という名の人的支援はするが、生活困窮を解消するための所得保障はしない、というわけです。ここには、所得保障(再分配)と自立支援(承認)の間に取引関係がみてとれます。第二に、そこではライフスタイルの領域にまで「支援」メニューが拡大することで、生活態度や家計管理などの「日常のふるまい」が「問題」とされていきます。そうした態度は、「これだけ支援してもなお自立できない者は自己責任だ」と、自己責任化のレトリックの強化につながる恐れがあります。このことは、生活困窮者への再分配を行わないエクスキューズとして機能するのではないでしょうか。さらに問題は、こうした「支援」の担い手として、NPO等に関わる女性たちが多く動員されているということです。

竹信 確かに多くの女性が自立支援に携わっています。私も「月間都市問題」という雑誌の企画で自立支援法の中の「中間的就労」について取材しました。実際に就労することを通じて働き方を学んでいくという職業訓練と就労の中間にある福祉的働き方なのですが、英国、イタリア、韓国では、国からの補助金などを通じて、こうした就労にも最低賃金が保障されています。一方、日本では、一般の労働市場並みの水準まで達しないと最低賃金は保障しなくていい枠組みになっており、その部分に国からの金銭的支えもない。そこを女性たちが中心になって必死で踏ん張っている感じでした。

堅田 再生産領域に関わる「寄り添い型」の自立支援は、従来の就労自立一辺倒の自立支援とは異なり、支援する側にとっても徒労感が相対的に少ないように思います。また支援される側にとっても、ただ「働け」と駆り立てられるわけではないので、しんどくない。つまり、支援する側もされる側も承認欲求が満たされるのではないでしょうか。しかし、その陰では所得保障のような再分配がごっそり抜き取られていくのです。このように考えると、いったい誰のための自立支援なのか、という問いが生まれます。生活困窮者を対象とした自立支援法でありながら、生活困窮を解消するための所得保障はほとんど行われず、自立の「支援」が氾濫していく。自立支援は、それを必要とするとみなされる人がいないと成り立たないので、まさに貧者・生活困窮者は支援者の承認や「自立支援産業」を支えるために機能的に必要とされているとみなすこともできます。とはいえ、自立支援にも大きなお金が付くわけではないので、ここに労働市場では周辺化されがちな女性が活路を見出す、動員されるという側面があります。

竹信 問題なのは、産業構造が大転換し、稼げる仕事がどんどん減っているのに、そこを手当するようなお金の回し方を政府がしていないことだと思います。介護とか保育とか貧困者の支援とか、急増する「稼げなくなった人たち」を支える仕事に女性たちが動員されていきますが、「女性は夫がいるからボランティア的な働き方でも困らない」というとっくになくなった前提に立って、ここにお金をつけない。だから、半無償労働のような形になり、社会のニーズのある仕事なのに賃金が出ないということで、新たな貧困が生まれてしまうのですよね。

均等法以降の「女性」の貧困と「女性」の分断

堅田 また最近、私が気になっているのは「冠貧困」の問題です。「女性の貧困」「子どもの貧困」「下流老人」「若者の貧困」などの、貧困問題を語るときの切り口に違和感を持っています。
 たとえば「子どもの貧困」という問題の立て方があります。そこでは、「子どもの貧困」への対策が、「子どもは親を選べない。だから貧しい家庭に生まれた子どもの貧困について、子どもには責任はない」というレトリックで正当化されてきました。しかし、そうした論法は簡単に、「大人の貧困」については自己責任だ、という主張につながってしまいかねません。「子どもの貧困」対策を正当化することが、「大人の貧困」対策を脱正当化する、という裏表の関係になっているのです。最近では「女性の貧困」がよくいわれますが、そうした問題の立て方もまた危険を孕んでいるように思います。「女性の貧困」といったとき、そこでは、障がいや病気などのために、そもそも生産力にならないとみなされるような女性は周辺化されがちです。「女性」も一枚岩ではない。私はそういう理由で貧困を冠で語ることに抵抗を感じます。

竹信 それは全くそのとおりですね。ただ、なぜあえて「女性」で括るかというと、これまで「女性の貧困」については「女性は結婚すればいいから困らない」「困っているのは男だ」といわれ、注目されなかったからなんですよね。最近では男性の貧困も大幅に増え、あたかも貧困が新しく出てきたかのようにいわれ始めて、再び女性の貧困は無視されています。私たちは、このような経緯から、女性の貧困に注目してもらえるように「女性の」を使わざるをえなかったわけです。

堅田 よくわかります。私も以前は「女性の貧困」という言葉をしばしば使っていたし、いまでも文脈によっては使うことがあります。しかし、女性といっても一枚岩ではないので「女性が貧困だ」という言い方でいいのか、迷いながら取り組んでいる状況です。
 とはいえ、若い世代を除けば、男の人より女の人の方が貧しいということは、はっきりしています。雇用の領域も社会保障の領域もとても厳しい状況です。新自由主義的な状況の中でどんどん切り縮められていて、その影響を最も受けやすいのが女性だと思います。そのような意味で、女性の貧困は範囲も広く、深さも深く、とても深刻な問題です。

竹信 先にも言ったように、「女性は結婚すればなんとかなる」は、すでに通用しません。結婚してもなんとかならないし、まず結婚しない、また、しなくて何が悪い、ましてや、結婚してDV夫などと同居しなくてはならなくなったら、もっと貧困になる、とさえいえますが、堅田さんは、どのような変化が起きているとみていますか。

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堅田 結婚は多くの場合、子どもを産み育てるという生殖目的と結び付けられています。もともと女性の賃金が低く、いまでは男性の賃金も下がっているなかでは、専業主婦になったり、子育てしたりすることが難しく、結婚するメリットはなくなったということではないでしょうか。ただ、それ以前に、「結婚すればなんとかなる」というように、貧困脱出のルートとして結婚しかない状況はそもそもおかしいと思いますが。

竹信 男性でも年収200万円以下の人が増えていますからね。
 私は、均等法は女性を労働市場に引き出すという点では有効だったと思います。女性を家庭内の無償労働力から、企業の賃労働者に変えて、労働力の供給を増やし、賃金の抑制に役立てる、ということで、これは経済界の考え方ですよね。ただ、そのとき、支配層内には、利害の対立がありました。官僚や政治家の間には、介護など家庭内の「無償嫁労働力」として据え置くことで福祉費用を抑えたいという考え方がありましたから。この対立を、女性を長時間労働の男性並み基準に合わせる形にすることで、折り合わせたのが均等法です。欧州では、企業に対する男女共通の労働時間規制で、男女ともに家庭内無償労働と賃労働に従事し、かつ税金で福祉的労働を支え、企業、男性、政府の三者が女性の負担を分けるという方向を目指しました。ところが日本では、労働基準法の女性保護を撤廃し、女性も長時間働かないと正社員という安定雇用には就けないことにしたのです。これで、丈夫で協力的なおばあちゃんがいたり、出産を選ばなかったりする女性は、総合職という男性コースに入ることができるようになりましたが、そうでない女性は、相変わらず家事・育児・介護の無償労働を担いながら低賃金のパート労働力として働くことになりました。これで、男性並みの無制限使いたい放題労働力を増やし、かつ、女性を無償福祉労働力+低賃金労働力として温存する、という一挙解決もできたわけです。均等法制定と同じ年に、夫の扶養に入っている女性には第三号被保険者という主婦年金を新設し、「均等法で男性並みに働けなくなった主婦などがパートよりもいい仕事を家事の合間にできるようにする」(高梨昌信州大名誉教授)として、労働者派遣法も制定しましたが、これらは、そうした世界観にもとづいた制度改変ですよね。その結果、女性を中心に非正規労働は急増し、これが、男性も巻き込んだ非正規の増加の端緒になり、現在のワーキングプアの温
床になっていきました。

堅田 均等法は、男のスタンダードを変更せずに、女がそこに近づいていくという形ですね。他方で、第三号などの制度を通して、一方で「含み資産」とみなし無償労働の担い手として、他方で低賃金労働者として、国家と資本が「女」を活用し続けるためのしくみが完成しました。

竹信 そこにはもうひとつのメリットがありました。男性労働者に総合職女性という競争相手をつくって、彼らにはっぱをかけることができるのです。当時、新聞記者として取材した証券会社で、「男どもには、『女性だってがんばっているんだ、それができないお前たちはスカートをはけ!』といっているんですよ」と悦に入っている役員がいました。しかも、女性だけにかろうじてあった深夜労働の規制がなくなったことで、管理職たちの頭の中に時計がなくなった。過労死はこのあたりから激増していきます。

堅田 女に与えられた選択肢は、男になって稼ぐか、被扶養に甘んじて貧するか、ということですね。
 私は1979年生まれのいわゆる「ロスジェネ」です。お金がなかったので、当時もっとも授業料が安かった大学・大学院に進学しました。奨学金制度も利用していたため、700万円近くの借金を現在でも返済し続けています。これは私に限った特別な状況ではなく、研究職を志していた多くの友人も私と同じような状況に置かれています。私は運よく研究職につけましたが、友人の中には研究職に就けずに死んでしまった人や、行方がわからずに未だに連絡がとれない人もいます。教育は雇用される前の人的投資のような機能をもたされており、教育を受けた後には競争に勝って正規職に就くか、就けなければ死ぬか、とんずらするか、というような深刻な状況になっているのです。私たちの「学びたい」という当たり前の欲求や暮らしが守られず、気づいたら債務奴隷になってしまいます。研究職なので特殊な例かもしれませんが、アナロジーとして一般の雇用事情にも同じことがいえるのではないでしょうか。

竹信 そのような前借制度的な強制労働制は、すごい勢いで広がりつつありますね。たとえば、保育士や介護士の労働力確保のため、再就職準備金制度をつくると政府は発表していますが、2年間働かないと返済が免除されません。労働条件を上げて定着を図るのでなく、前借で縛るのです。

堅田 次は自衛隊がそのような制度を設けるのではないでしょうか。
 現在の政治の根幹は「奴隷根性」を浸透させることにあると思います。秘密保護法制定も憲法改正も人々を隷従させるためです。それを手っ取り早く行うのが債務奴隷化だと思います。

竹信 先ほどおっしゃった「女性の貧困」といった冠貧困ですが、確かに、こうした債務奴隷化や劣悪非正規化による貧困化のパターンは、いまはもう女性に限らず広がってしまったので、それを「女性の」で切ってしまうと、見えるものが見えなくなってしまうのでは、という疑問はありますね。

堅田 そのとおりだと思います。また、「女性の貧困」が社会問題化されるときに、「年収200万円以下で生活する若年単身女性が急増している」というような言い方をされますが、そもそも年収なんて考えられない人からすれば、200万円でも「すごく稼いでいる」と感じるのではないでしょうか。多くの場合、収入が問題にされるときは、雇用されていることが前提で、いかに賃金が低いか、労働条件がよくないか、がポイントになります。そうすると、たとえば全面的に福祉で生きている人や、国の制度や男のお金に頼らず、独力で路上生活している女性の問題が抜け落ちてしまう。少なくともマスメディアの言説ではそうした女性の問題は切り離されて語られているという印象です。「女性の貧困」という問いの立て方は、意図していようがいまいが、女性の間の差異をも無視してしまう危険を孕んでいると思います。

竹信 マスメディアは縦割りの発想です。たとえば、労働と福祉は別の世界のこと、という分け方をするのですが、生活という面から見ると、福祉の対象は労働ができない条件にある人であって、地続きなんですよね。マスメディアのそうした特殊なレンズをはずさせるのは大変です。ただ、それが一般の人のレンズだったりもするので、悩ましいですね。

堅田 そういうことからも、竹信さんの「家事労働ハラスメント」という問いの立て方は大変貴重だと思いました。私もそうですが、「女性」として括られることに抵抗のある女性もいます。

竹信 確かに「男/女」という枠組みが不便なときがあります。しかし、それを使わないと分析しにくいというのも事実です。

堅田 そして、その枠組みから離れようとすると、やたらと「ダイバーシティ」を強調する新自由主義的な勢力に回収されてしまう危険性もありますよね。

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女性の無償労働を利用する新自由主義

竹信 さて、ここまで話してきたような均等法からワーキングプアまでの流れは、ある意味、私の世代が経験してきた従来からの女性の貧困のパターンだと思うのですが、いま、実は、女性の貧困の質が激変しているのではないでしょうか。新しい現象をよりリアルに体感している世代と思える堅田さんに、その変質ぶりを語っていただきたいのですが。

堅田 1つには、竹信さんがずっと発信してこられたように、雇用の変化、労働そのものがどう変わってきたか、切り縮められてきたか、ということなのだと思います。これにもう1つ付け加えたいのが、社会保障等の公的な責任が減退してきた、あるいはその質が変化してきた、ということです。その際、頻繁に用いられたロジックが「自立支援」でした。
 新自由主義はⅠ期とⅡ期に分かれているといわれます。Ⅰ期はロールバック型と呼ばれ、1980年代のサッチャリズムに体現されるような、小さな政府ですべてを市場に任せていく、というものです。これに対してⅡ期はロールアウト型と呼ばれ、国家は単に撤退(ロールバック)するのではなく、市場の自由を徹底させるためにむしろ積極的な役割を果たしていきます。と同時に、市民が「アクティブな市民」になって国家を肩代わりすることを期待されます。「新しい公共」や「第三の道」等がこれにあたり、市民社会とか民間活力の導入が進められるわけですが、それが最も進められてきたのが福祉分野でした。そして、ここで女性が積極的に活用されてきたのです。一般の労働市場で「男性並み」に働くことができない女性が、自らの働き場所や生きがいというものを、市民社会に見出しているのです。これは国家にとっては自らの負担を減らすことができ、企業にもうまみがありましたが、同時に女性の「自己実現」にもつながりました。新自由主義とフェミニズムの親和性、または癒着関係ともいうべき事態をここに見てとるこができます。

竹信 それは、新しい貧困要因ですよね。この夏、北海道夕張市で学生たちとフィールドワークを行うことになり、昨年来、何度か夕張に事前調査に出かけているのですが、ここはまさに、「アクティブな市民が国家の肩代わりをする」の実験場になっています。財政破綻して、当時の小泉政権が「自己責任」路線のモデルケースにするため自力返済を迫られた。税金が借金の返済に充てられてしまうので、公共サービスに十分にカネを出せない。そこで高齢女性などが、公共サービスにあたるものを必死に代替しています。たとえば、公民館の運営を、こうした住民が引き受けたり、公共空間にある花壇の手入れを住民が無償でやっていたり。安倍政権が「一億総活躍」の旗を振っていますが、まさに「総活躍」です。住民の一人の60代の女性は「いったいいつになったら、私たちに『老後』は来るのか。財政破綻の直後はみな、頑張って市を立て直そう、と気を張っていましたが、今年で破綻から10年。もういい加減疲れて気力が失せてしまう」と話していました。そろそろ借金返済から住民の生活の向上のために公的資金を戻して、公共サービスを回復する措置を取らないと、頑張ってきた住民たちも疲れ果て、希望を失ってしまうわけです。
 そんな話を聞いていると、「新しい公共」ではなく「公共の死滅」ではないか、と思えてきます。公共が撤退してしまうと、そこへ無償労働者としての女性が動員されていく、という構図そのままですよね。

堅田 そうだと思います。厄介なのが、それが女性にとっても「自己実現」のチャンスであったりすることです。一般の労働市場に入れない女性のなかには、そこに活路を見出している人も多くいます。

竹信 それが、ケア労働の賃金の足を引っ張っている要因の1つになっているかもしれません。かつて、福祉NPOで活躍している女性に福祉業界の労働条件引き上げの話をしたら「人のお世話をする崇高な仕事なのに、賃金だの労働条件だのいうのはおかしい。私たちは労働者なんかではない」といわれて驚いたことがあります。女性が福祉労働の劣化の尖兵になりかねないと衝撃を受けました。

堅田 子ども食堂を熱心にやっている人が、ホームレスへの炊き出しには否定的なことがあるのですが、そこにも共通する問題があると思いました。ただし、問題なのは、女性がNPOや低賃金の福祉労働に従事せざるをえない、そうした選択肢しか用意されないような構造のほうだと思います。

竹信 確かに、再生産領域での女性活用、利用、搾取を前提にして、ものごとが進んでいますからね。たとえば、DVの相談員をしている女性たちは、高い技能を低賃金で提供しています。DVという大きな社会問題の解決のために税金を投入して、相談にあたる働き手の生活を支える必要があるはずですが、生活できるだけの賃金にならず、やりがいを目いっぱい利用されて、女性たちはヘトヘトです。先日も、こうした相談にあたっている女性から「どうしてこんなに忙しいのかしら……。周りを見ても、ひまな女性が本当にいなくなっている」といわれました。「それは、ケア的な公共サービスのニーズが増え続けているのに、そこに税金を出さないからだよ」と答えました。低所得層への再分配や、これを支えるケア労働者の賃金に税金が使われていない。社会に必要な労働がまともな雇用にならない。そして、女性たちが食べるために行う賃労働の合間に、その種の無償労働にどんどん投げ込まれてきているのです。

堅田 意図せざる共犯関係という感じでしょうか。安倍政権に限らず、いわゆる新自由主義政権はこのような事態はとうに見越していると思います。「新しい公共」とは民主党(当時)時代に出てきた言葉ですが、自民党政権に戻ってもこの言葉を捨てなかったことには意味がありました。市民社会やNPOは「使える」ということです。彼らは、壊滅的な労働市場ではもう人々が十分に稼げないことはわかっているため、「新しい公共」という枠組みを導入し、市民社会を国家の肩代わりとして活用しながら、同時に、労働市場から排除/周辺化された人々の「承認」欲求を満たそうとしている、ただし「再分配」はしない、という仕組みになりつつあるのではないでしょうか。

ケア労働力として収奪される外国人女性

竹信 アベノミクスの「総活躍」政策による貧困化キーポイントは、日本国内の女性にとどまりません。アジアなどからの移住労働者の女性たちも、そこに巻き込まれつつあります。日本の女性を承認欲求で釣るだけでは、労働力として限界があるので、移住労働者も導入し、外国人への差別感を利用して、安いケア労働力として利用する試みです。

堅田 おっしゃるとおりです。ただそれはアッパーミドルの女性向けではないですか?

竹信 本当にそうだといいのですが。私は、やりようによっては、ロウワーミドルの女性も対象になるのではないかと心配しています。2014年3月に、シングルマザーがベビーシッターに子どもを預け、死なされてしまった事件がありました。飲食店で働いていて、インターネットの紹介サイトでベビーシッターを探して2人の幼児を預けたところ、その男性シッターの部屋で子どもの1人は遺体で見つかり、もう1人は放置されて低体温症になっていたという事件です。保育園不足が放置されれば、こうした所得が高くない女性も、手軽に預かってくれる場所としてシッターが必要になりうると思うのです。国家戦略特区で今年から「家事支援人材」という移住労働者の利用が解禁されましたが、その際、ベアーズという大手家事代行会社が、新聞社の取材に対し「普通の女性も利用できるように、最低賃金を割ってもいいよう政府に働きかけたい」という趣旨のコメントを出しています。この発言は波紋を呼び、アジア女性資料センターや移住者と連帯するネットワーク(移住連)などからの働きかけもあって、政府は、最低賃金は守ると約束しました。ただ、みなが黙っていたら、その可能性はあったと思います。しかも、日本の仕組みは、家事支援人材は、3年経ったら自動的に出身国に戻されるので、有期ではあっても更新によって何年も滞在できる香港などと違って、労働組合などのネットワークをつくっての待遇向上運動はしにくいです。こちらの監視の目がゆるめば、条件を引き下げた中低所得者向けサービスの提供は理論的にはありえると思っています。低所得なのに保育園に子どもを預けられない女性向けの「貧困ビジネス」ですよね。

堅田 なるほど。移住労働者の労働条件向上において、労働者の連帯は非常に重要だと思うのですが、それが構造的に困難な状況の中、貧しい世帯の保育ニーズを利用した「貧困ビジネス」が成立し得るということですね。ますます子どもを産み育てにくい社会になってしまいます。

竹信 日本では、2000年前後のジェンダーフリーたたきで性教育を封じ込めてしまいましたから、産めないときに産まない選択ができる女性も減っていくのではないかと危惧しています。安倍晋三首相もそうですが、「新しい歴史教科書をつくる会」に支持された小池百合子東京都知事が誕生し、性教育バッシングをしてきた人たちが主流になっています。中流家庭なら子どもにある程度の知識は教えるでしょうが、生活が苦しい家庭では目いっぱい働かねばならず、性教育をしている暇もない。こうした家庭の子どものなかには、学校が性教育に尻込みするようになったことで、生理を知らない女の子もいた、という話も聞いています。性教育の貧困からくる貧困も、女性に対する新しい貧困として今後、増大してきそうです。産めない経済状態なのに産まない選択ができなかった女性たちにとっては、極端に低賃金の外国人労働者による極安ケアサービスが頼みの綱になってしまうかもしれないですよね。

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