ビルマで取材中に、軍事政権によって殺害された長井健司さん。センター運営委員の清末愛砂の追悼文です。
長井さんのこと
10月1日
私が長井さんの死を知ったのは9月28日の朝。その前夜にニュースとして流れていたらしいが、私はインターネット・ニュースもテレビニュースも何も観ていなかった。
28日の朝、毎日新聞の朝刊を読んだ私は凍りついた。長井さんがビルマで撃たれて死亡したことが一面トップに書かれていたからだ。すぐにテレビをつけると、番組は彼の死を報道していた。にわかに信じがたかった。友人の新聞記者Eさんにすがるような思いで電話をする。本当なのかどうか。
留守番電話に残したメッセージを聞いた彼はその後、「動転している声を聞いて、家族や親しい友人たちはこのような思いをしていると思い、はっとした」と教えてくれた。長井さんに何度か会って友だちになったMにそのことを伝えた。彼も動転している。そして「ああ、長井はシャヒードになったんだ。彼はシャヒーだ」と震えるような声で答えた。
長井さんの死はどうやら間違いないらしい。授業中も泣きそうになるけれど、もちろん泣くわけにも、逃げるわけにもいかないので、そのまま「笑顔」で授業をした。
授業だったこともあるけれど、電話をきっておくことにした。私が長井さんと親交があったことを知っているジャーナリストがいる。万が一連絡があっても何も答えたくない、言葉にもできない、そう思った。
予想通り、授業中に東京の某雑誌編集部から連絡があった。知人が私のことを伝えたようだ。
Eさんは、「絶対にインタビューには応じないだろうと思ったし、答える義務もないので、大阪在住の長井さんの知人を探している記者には黙っておいたよ」といってくれた。その思いやりがとてもとてもありがたかった。
一日以上経って、彼のことを話してもいいと思い始めた。その理由は一つ。最近の長井さんの仕事から、パレスチナやイラクを取材していた長井さんというイメージがマスコミの報道で作られ始めていることに、違和感を抱いたから。
パレスチナやイラク取材は間違っていない。関心をもって取材していたし、私も彼の仕事の通訳やコーディネートをしたのもイラク取材だった。
だけど、長井さんのもう一つの側面を知ってほしかった。長井さんは今回初めてビルマ国内に行ったけれども、ビルマの人権侵害に関心を持ち続けており、私との会話の中でも、ビルマの少数民族のことや学生たちの民主化を求める活動のことが話題にのぼることが多かった。私が彼に親近感を持ったのは、パレスチナやイラク報道ではなく、ビルマやタイつながりだった。女性の人身売買についても何度か話をしたことがある。29日の夜に、Eさんに長井さんとの交流について話をし、30日に行われた抗議行動で私は人前でその話を少しだけした。Mも一緒に参加し、ビルマの人権状況、長井さんのこと、ジャーナリスト殺害に対して抗議しようと呼びかけた。
私のパソコンのなかには長井さんといっしょに写っている写真が20枚以上ある。
東京、バンコク、アンマン。なぜかドバイでの写真がなかった。いっしょに小船で運河を渡って遊んだあとに、ペルシャ料理屋で夕食を食べた。写真撮影はしなかったのかしら?二人とも食事をしたあとは、喫茶店のなかでまったりとしながら、水パイプを吸い、お茶を飲んだのを覚えている。その後は空港に戻り、疲れた足にマッサージをしようということで、空港内のマッサージ屋に。???二人ともあまり満足しなかったときに彼が「いやーー。バンコクの足底マッサージの方がいいよね」と笑った。
バンコクで撮った写真は、屋台で夕食を食べているときのもの。この日はバンコクの大学で女性に対する暴力に関するワークショップがあった日。タイ在住のカレンの女性にスピーカーの一人になってもらった。ビルマに関心のある長井さんだったら取材してくれるのではないかと思い、そのときちょうどバンコクに来ていた彼を誘ってみたのだった。ワークショップそのものには間に合わなかったけれど、会場まで来てくれた。その姿を見て、「やはり、長井さんはビルマに関心があるなあ」と思ったのだった。
実家に私が比較的気に入っている写真がある。それは、2002年4月に写したもの。
長井さんを含む何人かの日本人ジャーナリストたちが、日本に帰る私の送別会をしてくれたときのもの。その写真はイギリス在住時に住んでいたアパートの台所の棚の上に飾っておいた。遊びに来た友人の何人かが長井さんを指しながら、「素敵な人ね」と言ったこともあった。長井さんは比較的無口な方だったから、送別会では周りの人の話を聞いていることが多かった。そんななかで印象的な発言は、「日本に帰ったら、ここパレスチナで見た人権侵害を各地で話して伝えるんだよ」ということだった。実際に日本に戻ったあと、彼は一つ講演先を見つけてきた。送別会のこと、講演のこと、お礼を言うのを忘れてしまったよ。ありがとうね。
新聞の取材で「長井さんの死を受けて、今後どうしたいですか」という質問を受けた。うーん。私はジャーナリストではない。自分のフィールドである教育現場で何かするしかない。ビルマの人権侵害を学生たちに伝えること。これが私のできることだ。早速、今週の授業でBBCの記事を使いながらやってみることにする。
長井さん、ラングーンの路上で倒れているあなたの姿を見て、私は泣き叫びたくなったよ。どんなに痛くて、苦しくて、悔しかったことか。私の知っている長井健司が倒れている姿が目の前の映像のなかで流されるとは。私も悔しかった。手と頭を動かしているのは、何とか立ち上がろうとしたのではなかったのか。カメラを離さないあなたの姿を見て、私は「ジャーナリストだなあ」と心から思ったよ。カメラを持っている手と腕は間違いなく、私の知っている長井健司のものだった。
映像を観た後に、私は昔いっしょに行ったラマッラーでの一件を思い出した。
日本人ジャーナリスト3人といっしょにパレスチナ赤新月社の救急車で病院に向かったんだよね。その途中で私たちはイスラエル軍に降りるように命令された。外には何人ものイスラエル兵が鋭い目で銃口を私たちに向けていたね。私は恐ろしくなって、右隣にいたジャーナリストのAさんに「銃口が向いてますよ。まずいです。撃たれてしまうかもしれないですよね。兵士たちに撃たないでって頼んでみましょうか」とあほなことを聞いてしまった。このなかで表面上動揺しているのは私だけだった。本心は分からないけれど、私以外の三人は平然とした(ふりを)していたよ。こんなエピソードを10年後に「笑いながら」話することもできなくなったね。
長井さん、さようなら。さようなら。さようなら。
私は2007年9月27日にジャーナリストとして暗殺されたことを忘れないでいるよ。
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