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『女たちの21世紀』のリレーエッセイ「被災地で生きる女たち」は、被災地で暮らす女性や、原発事故で生活に大きな変更を余儀なくされた方の思いを届けるため、2013年9月からはじまりました。震災から5年の今年、執筆者の承諾を得てブログに掲載します。(2016年3月 『女たちの21世紀』編集部)

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 『女たちの21世紀』81号、2015年3月掲載

リレーエッセイ 被災地で生きる女たち 7

古川好子(福島県会津若松市)


被ばく者として生きる

 私は福島第一原子力発電所の事故によって警戒区域となった地域の住民です。
 その私が「私は被ばく者です」と言うと、聞く方は困惑するようです。卒直に驚く方もいますが、「何を大げさな」と思われる方も多いのかもしれません。
 そんなふうに周囲を驚かせて被ばく者を名乗る私ですが、実は事故直後から被ばく者と自覚していたわけではありません。震災翌日には福島県外にいて、1週間足らずで北陸地方まで避難していましたから、放射線をまったく浴びていないということはなくても、一生心配するほどの被ばくからは逃げきったと思っていたのです。
 でも、それは大きな勘違いでした。時間が経つほどに知らされる事故後の放射線量とそれが降り注いだ状況は、私は被ばく者だと自覚させるのに十分でした。そして、被ばくして傷ついた私の遺伝子はそう簡単に回復しないだろうし、ましてやもとにもどることはないだろうと思えました。
 そこからは「悲観」ではなく「自覚」して生活しています。家族の事情もあり四月中旬からは福島県内(会津若松市)に戻りましたから、外部被ばくを避けるために夏でも肌の露出を極力避けました。内部被ばくを避けるためにマスクをし、食品にも気を使っています。産地が北海道もしくは北陸以西の物とをと思っていますし、水道水も口にはしません。四年目になって外部被ばくへの警戒はずいぶんとゆるみましたが、内部被ばくは今も心配です。
 献血をやめました。臓器提供の意思表示の署名をやめました。被ばく者の私の血や臓器でもとおっしゃるほど切迫しているなら、それをも拒むものではありませんが、「被ばく者の」ということを知らされることなく、けがや病気で弱っている方に私の血や臓器が提供されることを許してはいけないと思っています。
 こんなふうに放射線被ばくを恐れる私が、なぜ今も福島県に居を置くのかと不思議に思う方もいます。当然私も県外への移住を考えないわけではありません。けれど、県外に出た途端、福島第一原子力発電所に関する報道が激減し、私でさえあの事故は過去のことですでに終わったことなのかと錯覚してしまうほどの状況です。原発事故は決して終わってはいません。高濃度の汚染水は今も増え続け、海洋排出されようとしています。中間と言われる貯蔵施設は具体的な貯蔵方法さえ決まりません。経験のない廃炉作業に伴う危険は今後何十年と続きます。これらの危険から目をそらし、ないものとしては暮らせません。会津若松市は福島第一原子力発電所からおよそ100kmで、同心円内には隣県が含まれます。私が線量計でみる数値も関東とほぼ変わりません。ならばこの危機感を持ち続けるために、福島県にいようと思っています。きちんと見届けようと思っています。そしてできることなら多くの方にそんな私たちを見届けてほしいとも思っています。それは、事故直後には被ばく者だと自覚できなかったことも含めて、「日本の原子力発電所事故による被ばく」の私たちこそが前例だからです。

【連載】被災地に生きる女たち
(撮影:牧田奈津美)
『女たちの21世紀』のリレーエッセイ「被災地で生きる女たち」は、被災地で暮らす女性や、原発事故で生活に大きな変更を余儀なくされた方の思いを届けるため、2013年9月からはじまりました。震災から5年の今日、執筆者の承諾を得てブログに掲載します。(2016年3月11日 『女たちの21世紀』編集部)

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 『女たちの21世紀』84号、2015年12月掲載

リレーエッセイ 被災地で生きる女たち 10

宇野朗子(福島市より京都府木津川市に避難)


 外は雨。真夜中の空間を雨音が満たしています。時折コロコロと聴こえるのは、蛙の寝言でしょうか―。ここは、奈良に近い京都の山里。福島市から避難をして5か所目の住まいです。
 避難当時4歳だった娘は、関西弁の小学3年生になり、今は夢の国で遊んでいる模様。夜中に帰ってきた連れ合いも、遠距離通勤の疲れで、深い眠りに落ちました。
 ひとり目覚めてパソコンをつなぐと、テロの衝撃と不穏な空気がひたひたと押し寄せてきます。怒り、不安、悲しみの声に混ざって、眠れない母子避難者の小さな声が聞こえてきます。
 子どもたちの寝顔を見ながら、この家を追われたらどうやって生きていこうと思い悩み、お酒に逃げてしまう、と綴られるその声に胸が締め付けられます。別の避難者が、人々があなたを見捨てるはずがない、と励ましています。
 避難区域がきわめて小さく設定された日本では、避難指示のなかった広大な汚染地域で、住民は、自己判断で避難するか否かを決めなければなりませんでした。避難を決行した人々の多くは、生活と経済の基盤を失った上に、家族や地域の人々との関係を失い深く傷つく経験をしました。やっとの思いで生活を立て直そうとしていた矢先、この夏、福島県と国は、区域外(自主)避難者への住宅支援を、来年度いっぱいで打ち切ることを決めたのです。そして「原発事故子ども・被災者支援法」の基本方針には、「新たに避難する状況にない」という文言が明記されてしまいました。
 先の避難者の悲痛な声は、このような中で発せられたものです。帰還を強いられた人、帰還するか思い悩む人、避難を願いながらも避難できずに暮らしている人、それぞれの苦悩があります。
 一夜にして家を捨てなければならなかった強制避難者の苦しみもあります。政府は、来年度までに、帰還困難区域以外の避難区域指定を解除していく、という耳を疑うような方針を決定。実際に、楢葉町の避難指示が9月に解除されました。事故原発に近く、被災前よりも格段に深刻な放射能汚染の残る、生活の場を破壊された故郷に、人々は帰れと言われています。
 原子力緊急事態の中で4年と8か月。原発事故も被災者もなきものにされようとしています。しかし現実には、約1万4000平方キロメートルに及ぶ地域が放射線管理区域となるほどに汚染され、子どもたちに甲状腺がんが多発しているのです。この国が本当にしなければならないのは、放射能汚染の土壌実測調査に基づいて、避難を含めた被曝防護の権利を保障することです。
 私たち避難者は、去る10月29日、「『避難の権利』を求める全国避難者の会」(http://hinannokenri.com)を発足しました。全国に散らばった避難者一人ひとりの小さな声と未来への意志をつなぎ、当事者の声として可視化することで、この現状を変えていきたいと願っています。雨の一粒一粒が川となり、やがて大海に注ぐように。


 設立集会集合写真
10月29日、「避難の権利」を求める全国避難者の会が発足しました



『女たちの21世紀』のリレーエッセイ「被災地で生きる女たち」は、被災地で暮らす女性や、原発事故で生活に大きな変更を余儀なくされた方の思いを届けるため、2013年9月からはじまりました。震災から5年の今日、執筆者の承諾を得てブログに掲載します。(2016年3月11日 『女たちの21世紀』編集部)

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 『女たちの21世紀』83号、2015年9月掲載

リレーエッセイ 被災地で生きる女たち 9

石本めぐみ(宮城県登米市/特定非営利活動法人ウィメンズアイ代表理事)

国際地域女性アカデミー in TOHOKU


 女性支援の活動をスタートしたのは2011年5月。災害ボランティアとして避難所や自宅避難者への物資支援をしていた時でした。わたしたちが訪問したいくつもの避難所で女性たちが声をあげられないでいました。みんな我慢しているのに自分だけ必要なものや何に困っているのか言えない、と多くの女性たちから聞きました。避難所から仮設住宅への引っ越しが終わる9月から、女性たちが集まりやすく安心して話せる場づくりのため、編み物講座を始めました。被災地のフェーズが変わるごとに講座も少しずつ形を変え、地元講師も増えていきました。楽しい講座からスキルアップや課題解決型まで、わたしたちが「テーマ型コミュニティ」と呼ぶ、編み物、料理、体操、パン、刺しゅう等の講座は、11年9月から15年5月までに429回、参加者のべ4366人。シングルマザーの会、女性視点で町の復興と未来を考える「まなびの女子会」など、地元の女性たちが感じる生き難さを少しでも変えていく活動へと踏み出していきました。そして、根っこの深い問題に本気で取り組むには、女性たちが自ら声をあげ社会を変えていく力と意識を備えることが必要だと、講座で出会った女性たちの声が教えてくれました。
 14年9月、JWLI(日本の女性リーダー育成研修)プログラムでボストン滞在中、ホワイロウ・コミッション(途上国の女性グループ・エンパワーメントをする国際NGO)を訪ねてNYへ向かいました。そこで、半年後に仙台で開催される国連防災世界会議に参加する海外の女性リーダーたちが被災地沿岸部を訪れ、地元女性たちと交流し、被災地の教訓を地元の人が直接伝える機会をつくることを提案しました。結論は、これまで国連等の国際会議に併せて開催されてきたグラスルーツ・アカデミーの開催を打診されました。初めて会った3人で3時間近く話すなかで特に白熱したのは、女性のリーダーシップのあり方、復興プロセスのなかで、いかに地域を巻き込んだ女性のエンパワーメントを盛り込むかなどでした。
 15年3月10日、宮城、岩手、福島で復興や地域づくりのために活動するNPOスタッフ、仮設支援員、子ども支援、小学校教員、助産師、弁護士などの才能豊かな若い女性たち40人と海外10か国から15人が集まり、日本で初めての「国際地域女性アカデミーin Tohoku」を南三陸町で2日間開催しました。被災地の現場で活躍している若手の女性たちが一同に介するのは初めてだと知り、わたしたちも驚きました。東北の次世代女性リーダーのネットワークの土台をつくり、東北の若い世代と世界の経験豊かな女性が互いの経験から学び合い、国連防災世界会議で発言機会を持つ途上国の女性たちが被災地の人たちから直接学ぶという目的はほぼ達成できました。改めて今後取り組まねばと思ったことの一つは、次世代女性リーダーの育成と機会提供が重要であることを、家族、職場、地域社会の理解と協力を得るために工夫してアピールすることの大切さでした。

リレーエッセイ被災地で生きる女たち9
特定非営利活動法人ウィメンズアイ http://womenseye.net




『女たちの21世紀』のリレーエッセイ「被災地で生きる女たち」は、被災地で暮らす女性や、原発事故で生活に大きな変更を余儀なくされた方の思いを届けるため、2013年9月からはじまりました。震災から5年の今日、執筆者の承諾を得てブログに掲載します。(2016年3月11日 『女たちの21世紀』編集部)

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 『女たちの21世紀』82号、2015年6月掲載

リレーエッセイ 被災地で生きる女たち 8

古舘和子(岩手県上閉伊郡大槌町赤浜/大槌町連合婦人会副会長/はまゆり復元保存会会長)

津波で乗り上げた観光船「はまゆり」


 2011年3月11日午後2時46分、日本周辺における観測史上最大の地震が発生。会社からすぐ自宅に戻ったが、婦人会のウインドブレーカーを手にするのがやっとだった。「逃げろ」という叫び声に慌てて外に出ると、真っ黒な津波の壁がすぐそこに迫っていた。必死に近くの高台に向かった。安全を確認し振り向くと、我が家は多くの思い出と共に一瞬にして呑み込まれてしまった。あのときの悲鳴は今も耳から離れることはない。
 数日後、地域の死者行方不明者は93名、うち婦人部メンバーは14名と知り、私はその場で泣き崩れ、しばらく何も考えることができなかった。しかし、何かしなくてはと使命感のような気持ちで、その後は涙をこらえながら地域の皆さんの世話をした。
避難所生活が続く中、男性たちとの食い違いが顕著になってきた。毎日、朝と晩に行っているミーティングから女性たちを外すようになったのだ。男性たちだけで物事を決める強引なやり方に悶々としていた。
 その頃、復興支援で山梨県から来ていた彫刻家の星野敦先生に出会った。彼は「震災を風化させてはいけない。復元された「はまゆり」は防災教育のシンボルとなり、地域の活性化にも繋がっていく」と、観光船「はまゆり」復元の草の根運動を始めていた。
当時、生きる望みを失いかけていた婦人部の会員のために星野先生の講演会を開いたところ、みんなの顔に笑顔が戻った。はまゆりの復元は私たちの使命であると手を取りあったのだった。
 その後、婦人会は「はまゆり復元要望書」を大槌町長に提出し、12年6月の定例議会で復元のための寄付金条例が可決された。
 しかし、それからが大変だった。赤浜地区の一部の男性たちが「俺たちの考えと違う」と圧力をかけてきたのだ。私たちの話は一切聞かず、私には「会の役員を辞めろ」とか、道路を歩いていた会員には「誰がはまゆり復元運動をやっているんだ!」と罵声を浴びせ脅した。怖くなった女性たちの中には、運動から離れる人もいた。私も心身共にぼろぼろになりかけたが、亡くなった人たちのことを想うと一歩も引くわけにはいかない。後世に伝えていくために頑張らなければ、と強く自分に言い聞かせた。
 ところが12年秋、私たちはさらなる困難に直面する。はまゆりのすぐ隣に東京大学海洋研究所が移転して来るというのだ。説明会で見せられた図面には駐車場も取れず、復元を邪魔するかのように、はまゆりの横に線が引かれていた。大学側の説明は地域を無視したものであり、当然私たちは反対運動を起こすことになる。今日まで話し合いの再開を申し込んでいるが、何もないままだ。15年1月26日、赤浜地域復興協議会の事前説明会で、赤浜住人は「はまゆり」の復元に反対をしないと発表があった。私の目に涙が浮かんだ。しかし、その数日後、婦人会の名前は新しい赤浜地域役員会名簿から消えていた。
 残念でならないが、これから赤浜婦人会は場を赤浜から町に移し、「大槌連合婦人会」として新たな活動をしていく覚悟である。はまゆりの復元運動は15年8月に特定非営利活動法人「はまゆり復元保存会」として新たに出発する予定だ。できるだけ早く復元を実現させたいと願っている。

入稿用【連載】被災地で生きる女たち (2)
岩手県大槌町ウェブサイトより



『女たちの21世紀』のリレーエッセイ「被災地で生きる女たち」は、被災地で暮らす女性や、原発事故で生活に大きな変更を余儀なくされた方の思いを届けるため、2013年9月からはじまりました。震災から5年の今日、執筆者の承諾を得てブログに掲載します。(2016年3月11日 『女たちの21世紀』編集部)

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 『女たちの21世紀』79号、2014年9月掲載

リレーエッセイ 被災地で生きる女たち 5

木村理恵(快療法研修生。2014年12月までネパール・カトマンズ在住)


 2012年4月、岩手県盛岡市からインドネシアのバリ島に夫と避難移住した。宮城県気仙沼市の実家と父は津波の犠牲になった。73歳の母は同居を拒み、今も仮設住宅に独居する。気楽な1人暮らしを楽しむ一方で、長引く仮設生活の疲れや被災当時からの緊張と不安が続き、震災直後から睡眠導入剤を常飲している。防潮堤計画の暴挙、東京五輪開催決定、復興税流用という被災地棄民政策は、喪失感を埋めようがない仮設住民から生きる力を奪っている。
11年4月から9か月間、岩手県大槌町と宮城県気仙沼市でボランティアをしたが、不正出血が続いたのでやめた。婦人科ではストレス性と言われたが、被曝症を疑った。骨に食い込むような疲れが抜けない経験は初めてだった。
バリ島に移住後、2か月ほどで不調はおさまった。今は母の仮設にボランティアに来た「快療法」者の縁で、ネパール在住30年の元看護教員の方から、代替療法を学んでいる。多くの医者が体制依存している現状では被曝患者は追い詰められる上、TPPで医療崩壊が予想される。できるだけ病院に頼らず、症状が軽いうちに自己ケアすることが必要になると思う。一時帰国の際に被災地や米軍基地前での座り込み抵抗者にその知識や技術を伝えたいし、国外で収入手段になれば助かる。

国外でも/だからできること

 進退を決めたのは12年元旦の地震だった。崩壊寸前のようなフクイチ4号炉の画像に震撼した。夫は3月に早期退職。石巻市出身の旧友が「逃げてきて」と呼び続けてくれたバリ島へ。40代夫婦の初の海外移住だ。反核活動仲間の反応が痛かった。「身勝手!」そうか。『蜘蛛の糸』を先頭でよじ登る男になった感覚。「妊娠したから避難するの?」と聞かれ、避難には我が子を被曝から守るため、という大儀が必要なのかという圧力を感じ、ふっ切れた。子どものいない自分がまず逃げて、逃げたい誰もが逃げやすい道作りに微力を尽くそう! 被曝、兵役強要、原発再稼動を回避できるまで、避難者の受け入れは国外でも必要だと思う。
 市民活動は国外でもできる。在外選挙制度で投票も可能だ。インターネットでパブコメ、カンパ送金、裁判原告参加も問題ない。反核イベント参加や保養支援は一時帰国のときに限られるが、移住国の反核者たちと共に行動できる。
 原発建設候補地のひとつ、インドネシアのスラバヤで、住民向けの原発セミナーに参加した。私の被曝被災体験談に自分事のように心痛め、涙するも、「なぜ、2度も原爆投下されたのに核エネルギーを選んだのか?」と鋭く当然な疑問を投げてくる住民たち。この問いは場を変えるたびに発せられた。
 日本の原発輸出先や核廃棄物の捨て先に狙われているアジア各国の市民に、「被害者」として反核を呼びかけることはできない。戦後処理棚上げと反省なき現政権、アジア搾取で経済成長を許してきた結果、放射能を垂れ流す最悪の地球汚染源となった日本。謝罪してから、反核連帯をお願いしている。加害に向き合い事実を共有することで、未来を開けると思う。


79号掲載_木村理恵さん
バリに建てた避難所兼自宅。この避難所は2015~2017年の間受け入れ予定。




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